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November 2006

Thursday, 30 November 2006

我が芸術論:本論

「おわび」
昨年(2005年)の秋から書き始めた我が芸術論、演劇論の入力原稿が、わたしの操作ミスですべて消えてしまった。それに伴って再度原稿を書き始める。半年の遅れになってしまった。自分の注意の無さが情けない。まあ、いつまでも自分を責めても始まらないので、この辺で忘れることにする。わたしの友人の言葉を思い出す:人生は、短いようで長いものだと。
また、再度原稿を書くことは、最初に書いたときより、今は多少考えることが増えたので、少しはよい内容が書けるのではないかとひそかに自分に期待しています。
Prelude
この文章を書き始めた季節は秋であり、よく世間では『読書の秋、芸術の秋』といわれていますが、なぜそのように言われているのかとわたしが考えますに、
『大気が澄み、空は高く、木の葉は色付き、また、夜の帳(とばり)がすっかり降りるころ、昼間のカーテンを押しのけて無数の星々が天蓋に輝き出します。
なんと澄んだ透明な自然の静けさを感じることか』
その言葉がわかるような気がします。
ところで、何か芸術というか、演劇というか、自分の人生の途中でわたしなりの考えを残したいと思い、拙い文章を書き留めることにしました。そうすることは、自分で、それらのことについて、整理ができると思ったからです。
芸術にしろ、演劇にしろ、この得体の知れない現象を考える自体馬鹿げているかも知れない。大体が目の前に見えないものを、どうやってあるもの(実体=Entity)として具現化できるのであろうか。確かに、芸術には、目に見えるもの(visible)として、建築・彫刻・絵画等がある。その論理では、visibleなものと反対ではinvisible,つまり目に見えないものとしては、演劇・音楽等が取り上げることができるかもしれない。私が言いたいのは、それらは、皮相的な現象でありもっと内面的なうちに秘めたことを考えるのです。目に見えるものでも見えないものでもそれらは、誤解を生みかねないものであり創造主である作者の意図することとはかけ離れて理解される危険性があります。特に作者の同時代の人ならば、作者から直接見聞して正しい解釈が成り立つかもしれないが、作者の死後の後世の人が、それらの作品を理解するには、間接的に資料から推察するしか方法がなく、間違った解釈がなされる可能性が大きいのです。それもまた、芸術へのアプローチといえるかもしれませんが。なぜならば、真の芸術とは、作者の体を借りて創造させているからであり、もともと混沌としたもので、山にかかった霞のもののようなものに思われるのです。以上からいえることは、それぞれの人々が、自分らの感覚に基づいて解釈(感じる)をしてよいもののように感じるのです。
最近、Artについて感じるのは、人間社会が存続する限り価値があるのであろうかと、非常に疑問を持つのです。それ自体、他の動物には想像することができないものであり、だからこそ人間であるからこそできる特技であるのですが。否、人間ではなくこの大自然がなせる業(わざ)なのです。
その存在価値について関連して言えることは、人類が発生して以来いつの時代でも「争い」が起こっています。芸術は、そのような人間の争い好きな性(サガ)に対して何ができるのでしょうか?芸術の役割とは何であるのか?その戦闘性を内面に常に宿している人類にストップをかけるだけの力が芸術にあるのであろうか?
改めて芸術の存在するべき拠りどころとは何か?私は、『芸術』についてつくづく考え込んでしまうのです。
これから芸術の専門である諸先生方の足元にも及ばない私が、私なりの稚拙な考えを披露するのは、はなはだ恥ずかしさの極みでありますが、諸先生方が無視していただけることを願って、これからわたしの残りの人生行路を一歩一歩大地に踏みしめながら、わたしの独り言として、どのくらい続くか解りませんが『芸術』を書き留めようと思います。コンテンポラリー(現代社会)に生きている人々や同時代の次元を超越した将来の人々に、この『独りの戯言』が少しでも目に留まり、こういう考えの人間が過去にいたことを認識していだだけたならば、わたしにとってこれ以上の喜びは考えられません。
(本編)
芸術は、文化の中でどこに位置するのか?そこら辺から述べたいと思います。『文化』の説明から見てみますと、社会科学の考えとして、『人間形成への文化の役割・影響は大きく、また、われわれ人類の生存の存続には必要なものであり、それが人間の技術・知識・習慣・伝統などを与えてくれるものである』と分析されています。
私見として、その文化の中で『芸術』も時間的・空間的領域内で発生し形成されるので、それぞれの文化圏内特有の土着的な芸術があり、その芸術作品はその文化圏内で未来へ引き継がれてゆくのです。しかしながら、最近では、電波の発達のおかげでその作品がその発生し形成された文化圏から飛び越えて世界へ発信するようになり、不特定多数の他の文化へ感染して行くのです。何ゆえ、私が『感染』という言葉を使用したかといえば、芸術は、よい影響とともに悪い影響も与えるからなのです。私は、土着的なつまりその土地特有の芸術がその地域内に保存されている間は、それはそれで価値があるのですが、他の地域へトランスファーすることによってその純粋さが失われるのです。ある人は、その現象は、融合と呼びそれはそれで一つの芸術といえるかもしれません。
無論、ある文化圏内の作品が一方通行的に発信されるだけではなく、他の文化圏内の作品が前者の圏内に入ってきて、つまり、交換交流の流れが見受けられ、『混合芸術』が生成されるのです。例えば、音楽の世界では、よく『フージョン』という言葉が聴かれます。これは、まさに『混合』ということで別の言葉で『融合』と置き換えることも許されるかもしれません。
私に言わせれば、『芸術』はいろいろに変形し、どんな環境にも順応できる能力を持った生き物であり、それはまるでアメーバのようである。誤解しないでほしいのは、それらの現象は、私が最初に述べましたように、芸術の皮相的なものであり、本質的な意味での芸術の究極の核は、普遍であるのです。
ところで、『文化』自体、誰によって生成されたのかといえば、その圏内の集団が知識・価値観・宗教等の面で何世代にも亘って受け継がれている中で徐々に培養され形成されたものであるが、しかしながら多少なりとも文化の各構成要素である経験・価値観などは過去からすべてを直接受け継ぐことがなく、コンテンポラリィー(現代)という濾過器を通じて現代必要なものは残し、不必要な不純物は取り除かれます。また、広義での『過去からの全文化』というコーヒーに現代の文化の砂糖やミルクとして加えるという逆の作用も考えられます。
次に考えなければならないのは、『文化』は一人の人間が完成させたものか、または二人以上の人間が作り上げたのかということですが、芸術家の文化形成に参画するという観点からは、例えば、私の専門分野の一つである西欧の中世世界の中でのいわゆる芸術家の姿は、キリスト教の影響との関連を考えながら述べなければならないと思われます。その前に中世の都市化以前を考えて見ますと、自然との協調のもとに農業の時代があり、その前には狩猟・採集の時代がありました。原始の形態である狩猟・採集の時代は、洞窟壁画に象徴できますように壁に描くことによって自然の力を祈ったのです。最近読んだ本によると、その時代またそのあとの農耕時代には、一人の芸術家によってなされたのではなく、2人以上の人によったと記されています。つまり、芸術家の個人の評価から見ますと、個人主義の発達とルターの宗教改革による個性の誕生の土壌ができるまで、一人でつくりあげたものではないと書かれてます。確かに、各集団には、それぞれの『社会的拘束・約束事・規範』があり、それらに縛り付けられて個性が埋没しているように思われますが、では一体『個性』とは何かと自問せざる負えません。個性とは、ある程度後天的に母親から分離して社会に放り出されて、いろいろな社会の約束事に洗礼され形成されるものであるが、また、人間本来備わっている本能的な要素に大いに依存していることなのです。遺伝的なものを含めた人間の根本的な本能のひとつといえるかもしれません。例えば、『描写という行為』一つとっても、その行為は、人間が二本の腕を授けられたときから何かを描く衝動に駆られるのは、何も社会的な強制力からではないと言い切れると思われます。それに、あとで社会的な要素が混合しただけなのです。以上の流れからいえることは、私の見解は、いつの時代もその『ある作品の創造行為』は、一人の人間に依っているのです。実際に、壁に描くにも石に彫るにも一人の人が作業をしているのです。換言すれば、文化の中でのほとんどの芸術世界では、それは一人の人間が芸術を作り上げることから成り立っているのです。絵画の画家(強烈に独創的なGoya)、音楽の作曲家(Beethoven)、建築の設計士(Michelangelo)また演劇の演出家(スタニフラフスキー)を思い浮かべれば十分納得していただけると思います。しかしながら、例外としては、西洋の中世期では二人以上の人間によって作られた共同作品なのです。キリスト教の影響を無視するわけにはできないのです。中世ではキリスト教建築だけではなく、教会の内部装飾である壁画、彫刻などは、それらに携わった人々を当時は芸術家(artist)とは言わずにただの職人(artisan)と呼ばれた人々によって創作されたのです。キリスト教の偉大さの象徴であるバシリカやドームやキリストや諸聖人列伝を綴った壁画や彫刻群にその影響が窺えます。彼らは、ある意味では現代版大工さんといえる存在かもしれません。一つの作品に、多くの大工さんが関わらなければ出来上がらないものだったのです。何人かの職人さんの作ったものを合体して一つの作品が出来上がったのです。面白いことに、当時の職人たちは、絵画にしろ彫刻にしろ、現代とは違って社会的には下層の位置にありました。つまり、彼らの作った作品自身の評価は、当時ではほとんどなくったのです。それらの作品群は、現在では芸術といわれていますが、当時はその宗教の傀儡のためにただ利用されたのです。芸術とかの概念が微塵にも感じられなかった時代なのです。
ところで、改めて申し上げますと、芸術とは、一人の人間の内面的な宇宙観(個性)から生まれるものです。別に、芸術家といわれる人々は、自分が創造した作品が、他人の目に触れられるとは思ってないのが一般的あろうと思うのです。他人を意識しては、後世に遺せるmasterpiecesはありえないと思われます。彼ら芸術家は、内面的に感じたことを想像の世界で浮遊させ、それらを人間の限られた手段で表現したに過ぎないのです。
ここでもう少し、ある意味では深く私が感じることを申しますと、彼ら人間ではなく、何かの存在を感じるのです。何か自分では、他人を意識しない自分とは違う次元のものが彼ら芸術家といわれている人々の手や体を借りて作り上げているようにつくづく感じるのです。よく創造する人々が、異口同音に言われることは、『自分以外の何かがそうさせる(つまり、創造させる)』と。ただ、未知の存在によって啓蒙され創造されたものが、イコール『芸術』とは、一概に言えないのです。それらが、自分以外の他人を意識したのではなく、ただ描いただけなのです。それがたまたま人間の目に触れただけなのです。
その得体の知れない存在によって人間と通じて創造された作品は、他者の認識があって始めて「芸術」として昇華するのです。ところで、「芸術の価値」は、乾いた心の人々へ心持や感動を与えるところに存在する価値があるのです。換言すれば、一瞬時、鑑賞者の心がその対象である芸術作品と同化をしてその創造主の存在との一体感の恍惚の状態になり、ある意味ではトランス状態になり、かつ現実から遊離させるフォースを秘めているのです。換言すれば、娑婆での生きることに対する倦怠感・焦燥感・現世逃避を持ち続けて最後の死を迎える運命にある人間たちへ、一瞬の快感、いや宇宙遊泳を提供しているのです。別の言葉を借りれば、芸術は、人間にとってなくてはならない大気の空気のようなものであるように思うのです。この空気が無ければ、じきにわれわれ窒息し、死に至るのです。そのような恩恵を与える作品群は、否それを創り上げる存在をその作品群の中に見出すのです。
その尊台は、カントの言う『宇宙律』かもしれませんし、また『神の存在』かもしれません。
また、別な見方をすれば、芸術の存在意義は、『各時代と場所での同時代の芸術は、過去の芸術に逆戻りすることが無く、過去を土台に常に新しいものを要求し、それを作り上げる創造的なものであり、実在表現としてのルミネ(光)を放出し続け文化圏に虹彩を与えるものである』と。
第一章
芸術とは何か?
この大きなテーマに対しては、古今東西の歴上の偉大な人々が卓越した文章を残しているのでが、その中で私が関心を持っている偉人たちの考えを取り上げたいと思います。また、僭越ながらそれらの文章に、私の批評も付け加えたいと思います。
始めに取り上げたいのが、アリストテレスで、彼は『芸術は、事物の外にある原理である。自然は、事物そのもののうちにある原理である』。つまり、自然の芸術作品は、事物のうちにあり、芸術の精神・創造性・感受性は事物の外にあると解釈することができると思われます。換言すれば、自然は創造性から生まれたものではなく、大宇宙の秩序・その律動の中で長い年月をかけて作り出されたものであり、人間界が生まれるはるか太古から存在していたものなのです。芸術はまさに人間のみが所有する想像(imagination)の原理が作り出した虚構の世界であり、フィクションの姿であります。しかしながら、今しがた虚構の世界と述べましたが、本当に非現実的な、贋物的なのでしょうか。私は、その力は、計り知れなく非現実的なものを理論的・道理的に再構築して「現実的な存在」として再生する力を持っているのです。よくその想像について、演劇の観点から見ますと、想像するには、2つのカテゴリーがあります。一つは、自分のはるか昔の過去の実体験でありそこから生まれる『再生想像』、もう一つは、その昔の過去の体験と近過去の体験との融合から生まれる『心像による創作想像』があります。また、役作りの人物創造のプロセスというものが演劇の世界でありますのでここで紹介したいと思います;(1)役の人物の行動との類似性の経験(2)経験の保存による記憶(3)記憶再生して想像(4)再生想像と新経験による創作想像、つまり心像(5)以上(1)~(④)までの整理(6)表現(芸術的仮構としての工夫)(7)表現の追及(8)想像(美的形態の実現)。
このような観点から、想像は芸術との対等の関係にあり、現実の姿を作り上げる面では、自然も芸術になるという論理が成り立つわけです。
最近、芸術とは、想像の空間の真っ白い用紙に色を塗り染め上げるものように感じるのです。どのように色を使い分け、何色にするのかは、その主体者の判断に委ねられています。つまり、その主体者の感覚というか感性というか、そういうものが芸術であるように思われます。人は、よく芸術を『美』というが、それは、他者が言う言葉であり、客観的なものであり、それは「本来の芸術の姿」ではないと感じるのです。芸術家は、『美しさ』を意識して描いているわけではないのです。例えば、スペインのゴヤの描く世界は、特に難聴になってからの彼の作品群は、決して美しいという言葉に当たらないのです。
ところで、この想像の力は、よい面も悪い面も一枚の紙切れの表裏一体のようなものなのです。ある意味では、他の生命体にはない人間特有の、唯一の武器といえるかも知れます。つまり、人間には、他の動物とは違って牙や鋭いつめなどの武器がない代わりに『物を想像する力』が天から授けられました。その想像力のおかげで動物を殺傷するための武器を作り出すことができました。しかしながら、その能力も使い方しだいであります。芸術の想像と科学の仮説とは、同類であり、想像する能力をホモサピセンスが使う限り、いつの日か人間界が生存限界を超えて、または破滅への茨の道を歩むのではないかと大いに懸念したします。人間が気づくのがもうすでに手遅れかもしれません。なぜならば、過去にアインシュタイン博士の想像力(仮説理論)によって、『原子爆弾』という人類破滅への足がかりになった最大の武器を製造してしまったのです。
しかしながら、想像する能力は、本当に人間のみに与えられたものなのでしょうか?
私は、想像とは頭の中で無から有を作りそれをいろいろなパーツと組み合わせて関係式を想像することなので、人間以外の生き物にも存在しているように思われるのです。もう少し深くこり下げて考察したいのですが、本題に戻りたいと思います。
フランスの哲学者であるアラン曰く:宗教的な舞踊の中に一つの新の芸術、それも最高度の芸術を発見するのです。つまり、規制された姿勢・沈黙・リズムのある言葉・唱歌・礼節・行列などを考察せよ。ここでの悲劇役者は自分の役割に捉えられ、寛仁・容赦・諦めを実感するように導かれる。慰めは、外から内へ向かうのであり、すべての人々のあの注意力の緊張によって、あの協和によって、慎重に満ちたあの動作によって鎮静がもたらされるのである。そこから触覚に感じうる外的な神という観念が生まれる。(→「諸芸術の体系」P73~P74から引用)
『芸術の究極の姿』が深く宗教的なもの(神と同等性)と関わっていることがアランの文章から理解できると思います。これに関連した『芸術と宗教の関連性』については、後ほど考察したいと思います。
ところで、別の意見としてクラリクの文章を取り上げてみたいと思います:芸術は、五葉の芸術からなっている。つまり、味覚芸 ・嗅覚芸・触覚芸・聴覚芸・視覚芸である。(→『世界美・一般美学試論』から引用) 私は、それら五葉に自分流の諸芸を組に入れています。つまり、味覚芸としての料理、嗅覚芸としての御香、聴覚芸としての音楽、視覚芸としての絵画・演劇・建築・彫刻・詩や散文が対象であり、時間の許す限りそれらに触れるようにしています。
クラリクの指摘している諸覚芸の中で、触覚芸とは何か?クラリクは、触覚芸とは、ビロードのさわり心地であり、柔らかさ・しなやかさ・滑らかさの形容詞は、そこから生まれると説明しています。                                                            
 次に、ロシアの文豪であるトルストイを取り上げると「芸術とは何か」の中で次のような文章を残しています:芸術は、あくまでも人間一人一人の思索と救いのために存在するのである。芸術は人類の進歩の2つの機関のひとつだ。言葉によって人間は思想の上を交わるし、芸術の形によって人間は現在ばかりではなく過去や未来のすべての人間の心持の上で交わる。芸術は、言葉と同じように一つの交通の手段だから、進歩つまり人類が完成に向かう前進の手段だ。言語は、いま生きている人に前の人やいま一番進んでいる人が経験や思索で知ったすべてのことを知ることができるようにするが、芸術は今生きているこのごろの人にそれまでに人が味わった心持や今一番進んでいる人の味わっている心持を何から何まで味わえるようにする。芸術を通じて、人間と人類の精神生活になくてはならない、ありがたい作用に利益を受けられるようになる。                                  以上の中で特に私が含蓄のある箇所と思われるところで、私なりに解釈しますと「芸術」とはまさに「心持」であり、見る人・聞く人に「感動の波動」を喚起するそのもののように思われます。トルストイの意味するところは、人類の精神生活に必要不可欠なものであり、人間が科学技術の恩恵の下で生まれてきた物質面だけでは行き続けることができないことを示唆しています。また、彼は、「芸術は、ある時代ある社会で一番大切だと考えられた真理を知識の領域から感情のそれに移すものであり、宗教が芸術の方向を指し示す船の羅針盤(私の造語)のようなものである」と言及しています。まさに、すばらしい解釈論であります。但し、宗教が芸術の道を切り開くとはどういうことなのであろうか?確かに歴史上では、古代から中世までは宗教を通じて芸術の方向を示す「芸術作品」が数多く作られたことは認められます。建築の作品で言えば、現存はしていないが紀元前3100年に始めて文明の形態を整えたシュメール文明の作品に見ることができます。旧約聖書の「創世記」にあるバベルの塔の原型となったと伝えられているバビロンにあったジグラット(ZIGGURAT)がありました。現在のイランで発掘されたエラム王国チョガー・ザンビールにその雄姿を見ることができます。東南アジアの宗教建築の傑作といわれるカンボジアのアンコール朝の王が建築したとされるアンコール・ワット、中東のエジプトのピラミッド群、また中世の時期のものとしてのイギリスのダラム城とその大聖堂(ダラム城は、町を治めたダラム司教の居城)、同じ中世の建造物としてのフランスのモン・サン・ミッシェルの修道院、同じフランスにあるゴシック建築の大聖堂であるランスのノーとる・ダム寺院、1248年着工で1880年に完成したゴシック建築の傑作とされるケルン大聖堂、中世期のキリスト教徒の最大の巡礼地のひとつに数え上げられているスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラーの大聖堂等が列挙することができます。  ヨーロッパ中世期の絵画を見ても、すべてがキリスト教の影響を受けた素材で描かれています。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチのいろいろな作品(「岩窟の聖母」「三王礼拝」「最後の晩餐」)や中世の生活様式を概観することができる貴重な資料であると同時に芸術性が高く評価されている「ベリーの祈祷書」の数々を通じて理解できるのです。                                          ここで、せっかくレオナルド・ダ・ヴィンチが出てきましたので、少し興味のあることを述べますと、彼の有名な作品である「三王礼拝」に登場する2人づつ対になっている「二重人物像」について触れたいと思います。彼の描く構図は、すべてよく似た2人のワンセットの様相のもので、何故このようなものを考え出したかというと、田中英道氏によると(*講談社学術文庫「レオナルド・ダ・ヴィンチ」P101~P102より引用)、アリストファネスの怪人物のことを思い出すそうです。フィチーノの「饗宴(シンポジオン)」の注釈に「神秘的でプラトニスムの詩人」と呼ばれたクリストフォロ・ランディーノが考え出したそうです。プラトンの「饗宴」では、「人間は、もともと二人が重なった姿をして手足を四本持っていたが、彼らは傲慢になり神々に刃向かうことになり、ゼウスは、彼らの体を二つに割り、人間は、自分の体を追い求めることになる宿命を負ったということです。その求め合う二人の間にあるのが「愛」っだといわれています。」レオナルド手記によると、『愛されるものがその相手とちょうど合うとき、そこに喜びと満足がもたらされる。愛するものが愛されるものに結びついたとき、そこに安息が生まれる』。このことは、芸術家によって作られる作品が、描かれる対象と一体になってはじめて作品となることである。この結合が、まさに「あい」によって生まれる。                                           『愛』に関連して私の考えを補足させてもらいますと、愛の問題については、古今東西のいろいろな人々が述べていますので改めて私が取り上げることではないのでしょうが、若干述べさせていただきますと、愛の現象は不思議なもので人間同士に話を限定しますと、つまり人を愛することになると自分のことをすべて知ってほしい気持ちというか感情が湧き、また相手のすべてを知りたい欲望が目覚め、その双方の交流の気持ちの中で『肉体的にも、精神的にも一体』になりたい気持ちになるのです。先ほどのアリストファネスの怪人物の姿を想起せざる負えません。『饗宴』では、二つの愛の形があると述べています。一つは天上の愛であり、それは魂の和合であり、地上の愛は肉体の満足を求める愛であり、天上の愛は男性同士の間にだけに存在し、地上の愛は男性と女性の間にあるとプラトンは言っています。私は、天上の愛は『魂の結合』を求めるのみであるとプラトンは言っていますが、現在のホモセクシュアルの行動を見ますと、肉体的結びつきを求めることが強調されているのが趨勢のように見受けられます。このような観点に立てば、男性同士、男女同士の肉体の接触を持つ欲求が起こるのが納得できます。また、『饗宴』の中で怪人物は、本来3種類に分けられます。つまり、男と女そして男女です。二つに割られた人間が、相手である人を求めてもとの怪人物に戻ろうとすることは、人間の本性であるとプラトンは言及しています。ゼウスによりその怪人物の巨大な力を所有していたのでそれを二つに切ってしまったということです。それだから人間は、肉体の一体を求め続けているのでしょう。人間の宿命を感じるしだいです。人間は、精神の一体感の欲求より先に肉体の一体感がとかく先行して不均衡が生じ、ある一定期間が過ぎると肉体の一体感から遊離したい欲求が起こるのです。その点を考えると『愛があればなんでも克服できる』という信仰が崩れてしまうのです。確か愛については、肉体的なことよりも精神ことを重視して古今東西の人々が言っているのでしょうが、いずれにしても肉体的なアンニュイが精神の面での愛も消えうせてしまうのも事実であります。この点では、人間は、本来『片輪の孤独な生き物である』といわざる負えません。逆の解釈をすれば、ゼウスの逆鱗に触れた人間は、それが幸いして『愛』を知り、愛を追い求めることができたと思われます。また、人間は、他の動物と何も変わらないではないか、つまりもうひとつの片輪物を追いまわるだけの生き物であるといわれるかもしれない。私は、人間以外のほかの動物のほうかかるかに素直でまた醜くないといえます。なぜならば、他の動物は、子孫を絶えさせないよう一体感を求めるのであり、人間は、子孫を増やすという本能の部分だけでなく、『快楽のために』怪人物の分割される前に戻ろうとするのです。(←『西洋中世の男女』P176~P177から引用、阿部謹也著、筑摩書房)                         ところで、最近特に『愛』の脆さがあり、たとえば『離婚問題』が新聞の社会面を騒がせています。何がそのような風潮が起こるかといえば、いろいろの原因が考えられますが、広い観点から申し上げますと産業革命により科学技術の進歩が未曾有の速さで追求され、本来の人間性の内面性を置き去りにしてきた結果ではないかと考えられるのです。むしろ人間性の優位性を高らかに謳った『ルネサンス』以降から始まったのではないかとも考えるのです。人間が作り出したものは最高であり、人間の社会で気呪縛からの完全の解放・自由放任の風潮・個人主義の趨勢等が、その離婚を誘発したのではないかと思われます。また、キリスト教のプロテスタントの台頭との関連を無視するわけにはいかないのです。ここでそれ以上深く工作する余裕はないのでこの辺でやめますが、もうひとつ忘れてならないのは『都市の存在』があるのです。つまり、農耕生活の時代には、村単位のいろいろな掟や規律が明確に存在していたので、離婚というひとつの問題も個人で勝手に解約できるものではない、村の長老などが集まり協議して決められるものでした。その問題は、むらの将来のにとって考えねばならない重大なものだったのです。しかしながら、都市の誕生とともに職業の専門家が進む一方,ある意味で横の線の関係が希薄になり明確な規律等がなかったのです。いずれにしても『愛』は、双方の合意が基本線であるので、誰からも社会的な拘束がなく、またいつでも別れることに躊躇することなく容易であるのです。私は、このような風潮が続く限り、いつの日かいろいろな面で社会のひずみが生じると危惧するのです。ある意味では、社会的な規制というか、規律がどうしても必要であり、それは、ある意味で人間を拘束するものであるが、必要悪であると思うのです。何か容易に好きもの同士が結ばれ、また分かれることは、動物以下の行為であるといえる根拠はすでに別の箇所で申し上げたように、人間の性行為は、子孫繁栄のためにだけではなく、まさに『性的な快楽、エクスタシーのためのもの』であるということです。最終的には人類が無秩序な世界になる可能性があると予想されます。
ここで、私の専門領域である『西欧の中世の世界』から教訓として、学ぶべきものがあると思われますのでご紹介したいと思います。
ルネサンス以前の中世1000年のヨーロッパでは、当時の人々は、キリスト教の絶対優位(supremacy)下で、人々の生活全般について支配権を振るっていました。僻地への教化には、宣教師が派遣されました。まさにキリスト教の全盛期だったのです。中世期を理解するためには、キリスト教という宗教を抜きに語れないのです。   さて、『男女の結婚観』についてここで当時のことを概観するために、中世のヨーロッパのゲルマン人について考えてみたいと思います。なぜならば、当時は、ゲルマン人が実権を握っていた時代なのです。ゲルマン人を理解するための最適な資料としてローマの歴史家であるタキトゥスが記録した『ゲルマニア』を紐解きながら彼らの習慣・風習を見てゆきたいと思います。ラテン語の原文には次のように記述されています。もし、ラテン語が読める方は、原文をお読みください。

  Ergo saepta pudicitia agunt, nullis spectaculorum illecebris, nullis conviviorum irritationibus corruptae.  Litterarum secreta viri partier ac feminae ignorant. Paucissima in tam numerosa gente adulteria, quorum poena praesens et maritis permissa : abscisis crinibus nudatam coram propinquis expellit domo maritus ac per omnem vicum verbere agit. Publicatae enim pudicitiae nulla venia : non forma, non aetate, non opibus maritum invenerit. Nemo enim illic vitia ridet, nec corrumpere et corrumpi saeculum vocatur. Melius quidem adhuc eae civitates, in quibus tantum virgines nubunt et cum spe votoque uxoris semel transigitur ; sic unum accipiunt maritum, quomodo unum corpus unamque vitam, ne ulla cogitatio ultra, ne longior cupiditas, ne maritum tam quam matrimonium ament. Numerum liberorum finire aut quemquam ex agnatis necare flagitium habetur ; plusque ibi boni mores valent quam alibi bonae leges.

(要約)
女性は、よく貞潔を守って一生を過ごす。また、姦通があった場合は、その罪としてその夫に一任される。夫は、妻に髪を切り裸にし鞭を打って村上を引き回す。本当に穢れた貞操にはまったく情けがなく、もはや再び夫を見出すことができないであろう。また、処女のみが結婚し新婚の望みとその誓いは、ただ一度のことである。女性は、ひとつの体ひとつの生を受けているように、ただ一人の夫を守って、決して浮気をしない。女性の愛するのは、夫というよりもむしろ『結婚』そのもの(妻であり母であること)であるほどである。(←『ゲルマーニア』P.21~P.22,P.46~P.47から引用、タキツゥス,刀江書院)
ゲルマン世界では、結婚の形態は、3つあったそうです。(1)形式な結婚(Muntehe),いわゆる見合い結婚(2)和合結婚(Friedelehe),,いわゆる恋愛結婚、そして(3)略奪結婚です。
以上ゲルマン人の『結婚観』についてみて来ましたが、彼らにも見られたように『社会規範』により社会が統一され秩序立てられていたのがご理解できたと思います。


第2章
宗教と芸術との関連性について

この章で重要な命題である宗教と芸術との関連性を考えてみたいと思います。
集団の中で人間同士が生きてゆくには、衣食住だけでは足りず何かひとつに統合された崇拝できる何か宗教的なものを持たなければ存続できなかったのです。歴史の中で政治と宗教的な権化である一人の人間が絶対的な権力者として集団をまとめるために日常で存続したこともありました。(たとえば、古代エジプトのファラオ・紀元前3100年ごろのメソポタミア文明そしてインダス文明の権力者たちです。)またもう少し前の時代である狩猟採集の原始時代には、現代の存在する未開社会から推測すると、部族があり、また政治的な統率者である酋長と宗教世界を司る祈祷師とが明確に分離され、双方の役割分担が決まっていたであろうと思われます。そして豊年時の神への感謝の表現として『踊り』が定期的に開催されたことがあったろうと想像します。その踊りは、本来の意味では宗教的な表現であったが、(現在でも世界の一部の地域では、純粋な宗教的な踊りを見ることができます。たとえば韓国のムーダンや僧侶による梵舞、2世紀にエジプトで独自に発達しました東方教会の一つである単性論派のコプト正教会の踊り等があります。)客観的に見ると『自己表現の顕在化』であり、それはまさに一つの『芸術作品』といえるのではないかと思われます。そして宗教儀式には、必ずある儀式が執り行われます。その挙行の為に必ずといっていいであろう舞踊や音楽が付き物です。現存する諸宗教は、原始の外見部部の原型を変形して、ある種の形態に作り変えています。それは本質的には変わらない部分がありますが、その時代時代にあった外見上の変化を顕在化しなければ、その時代に住んでいる人々から取り残される恐れがあるからと推測します。いずれにしてもそれらの表出の顕在化がなければ、諸宗教は、多くの人々に影響をもたらしまた時間的空間的な広がりを持てなかったのです。また、宗教と芸術との優位性について言及しますと、宗教は芸術より上位ではなくその芸術の放出の最中にまさにその中に『宗教の崇高さ・神的なもの』を人々は肌で感じ取るのです。
音楽の世界を取り上げますと、西欧近代音楽の開祖といわれているヨーハン=セバスチャン=バッハの音楽は、まさに宗教音楽であり、音楽の転換のきっかけになったのあり、また音楽の一つの原点を確立したといえるのではないでしょうか。そして、私は、宗教と音楽との間にアイデンティティーを感じるのが、教会とパイプオルガンとの存在なのです。私が特に取り上げたかったのが宗教の一つであるキリスト教と音楽の関連性なのです。皆様がご存知のようにキリスト教が宗教として公認されたのがローマ時代のコンスタンティヌス大帝の時代の西暦313年であり、それまでは、彼らキリスト教の信者たちはローマ帝国からいろいろな迫害を受け、地下でひっそりと活動していたといわれています。その地下に礼拝堂を建設し、聖歌が作られたとされています。ある記録によれば、その聖歌が発達して後の『グレゴリオ聖歌』になったということです。その聖歌が最終的に『西欧音楽』の礎になったのです。
ここで、さらに芸術の一形態である音楽に争点を絞って話を進めようと思います。
音楽で一般に知られているのは音楽ジャンルであるクラシック・ジャズ・ポップス・ロック・ボサノバ等とは違い、また歴史上では目にすることがないマージナルな、つまり社会の辺境地に位置する、換言すれば一般の社会圏には存在しないもので、それは『ROMA音楽』といわれているものを取り上げます。私自身も少しはそれらの作品を演奏したことがありますすので、私の経験を交えながらお話をしようかと思います。きっと多くの読者の方は、『それは何ですか?』と質問すると想像しますので、少し『ROMA』から説明しますと一般に定住社会圏を持たない『放浪の民』といわれ、彼らは西暦1000年ごろにインドのラジャスタン地方から出発して北部アフリカ・ヨーロッパへ辿りついたといわれています。その後迫害・抑圧から地球上を転々と徘徊することを余儀なくされました。たとえば彼らの場所を転々と余儀なくされた歴史のあとを紹介します:
西暦800年~950年ごろ Domba と呼ばれた集団がインド北方ペルシャやアルメニアへの移住を開始
1407年 ドイツに存在した記録あり(但し、10年以内に追放された)
1418年 フランスに存在した記録あり
1422年 ローマに存在した記録あり
1425年 スペインに存在した記録あり
1492年 スペインは、反ローマ法可決。ローマ人を異教徒として異端審問へ委任
1498年 アメリカに移住の記録あり:クリストファー・コロンブスの第3回航海にローマ人が同行を通じて移住
1526年 イギリス人のヘンリー8世が、ローマ人をイギリスから追放
1538年 ポルトガルは、ローマ人をブラジルへ追放
*現在でも彼らへの偏見や迫害が続いている。事例として、コソボ問題、マケドニア問題があります。                                      以上のようなつらい歴史を経験しているが、彼らは、生活の中で踊り、また手相占いをしていました。ここで注目されることは、彼らは野原や森や川など、つまり大自然を愛し自分らを『自然の王』といっています。彼らは、また文字を持っていなかったのです。以上の理由から彼らについての記録された資料を入手することは大変難しいのです。現在では彼らの系統を引きスペインで生活しているGitano(ヒターノ)がいます。特に彼らは、音楽分野で才能を発揮して、個性的で独特でそしてどの音楽ジャンルにも属さない『フラメンコ音楽』を生み出し、多くの人々に路上やタブラオで披露し感動を与えています。私もフラメンコギターを多少勉強していた関係上、大いに興味があることなので若干その音楽について説明させていただきますと、ある資料によると、フラメンコは19世紀半ばに生まれたといわれています。この音楽は、フェニキア人・アラビア人・ユダヤ人の各芸能音楽とフュージョンされたものといわれています。フェニキアは、エジプトとバビロニアの狭間の地域にあり、紀元前15世紀に生まれ次第に周囲の影響のもとに都市国家の形態になり、海上貿易では北アフリカ・イベリア半島に進出し、最終的には地中海全域で活躍しました。また、アラビア人は、イベリア半島の進出の動きがあり、当時の半島に存在していた諸民族にいろいろな影響を与え、美術の面では、たとえば『グラナダのアルハンブラ宮殿』、アラブ人の居住地であった『アルバイシン』、町全体がイスラムのカリフ王国として10世紀から300年間栄えた『コルドバ』があります。また、歴史上複雑な諸宗教(イスラム教・キリスト教・ユダヤ教)が錯綜した痕跡が残る遺跡や建物が存在する古都トレドがあります。またその町は、エル・グレコが愛した町としても有名です。またユダヤ人は、商才がありヨーロッパでは大いにその分野で活躍しました。また、中世ヨーロッパでは、彼らユダヤ人は、一般の都市住民とは別にGHETTOへ強制的に隔離されました。そして、いろいろな面で制限され、たとえば『市民権』をしばらくの間取得することができませんでした。一面、ユダヤ人排斥運動を回避するために故意に隔離したと別の見方もできます。そして、彼らの宗教は、ユダヤ教であり、カトリック教会へ行くのではなく彼らの教会であるシナゴーグと呼ばれている聖堂へ行き、またその聖堂を司る人は、祭司ではなくRABBIと呼ばれる賢者でありました。しかしながら、既存のヨーロッパ世界に彼らの定住生活を通じて何世紀にも渡り『政治的・文化的(この章の関連の音楽も含みます)な面』で潜在的に大きな影響力を及ぼしたことを見逃すわけにいかないのです。
いずれにしても、このようなフージョン(融合)音楽を通じて『フラメンコ音楽』が生まれたのです。その音楽は、カンテ(歌)・バイレ(踊り)・トーケ(ギター)・サパテアード(足拍子)・パルマーダ(手拍子)・12拍のリズムによって構成されています。フラメンコのリズムパターンは、10種類以上あります。神秘的な雰囲気の『ソレア』、陽気な感じの『アレグリーアス』、その他ブレリア・タンゴス・ティエントス・不思議なリズムの『シギリージャス』、ファンダンゴス、マラゲーニァ、ベルディアレル、グラナイーナス、タラントス、タンゴ・デ・マラガ、ファルーカ、ガロティン、ぺテネーラス、セビジャーナ、グァヒーラス、ルンバスなどがあります。ここで注目しなければならないことは、フラメンコの世界では、「DUENDE」の存在を信じています。その存在は、霊であり妖怪であり、それらの力によって舞台が進行していると信じられています。ここで、私は、『宗教と芸術のラポー』を強く感じるのです。
話を戻すと、『流浪の民』は、宗教が存在したのかと疑問が起こりますが、キリスト教徒に言わせると、『宗教にかかわりのない民』であるといわれています。私はむしろある枠に囚われない教義(CREED)を持たないある種のアニミズム(自然崇拝)を信仰していたのではないかと想像いたします。ケルト民族やゲルマン民族との共通性をそこに感じるのです。ここで共通点を考察してみたいのですが、それは別の機会に譲るとして、とにかく先ほど述べましたように流浪の民は、森の精や河の精・太陽・月・その他この大宇宙を信仰していたように感じます。このような振興の民は、必然的に既成の宗教との葛藤が生じ、最終的にはその時代を支配していたある意味で地域的な宗教が優位に立ち彼らの信仰宗教(?)が下位になりいろいろな抑圧を蒙ることになってしまうのです。具体的には、ローマ帝国の時代にユスティニアヌス帝により公認された『キリスト教』は、現在でもそうですがヨーロッパ全域に精神的な及ぼしたのです。ここでこの流浪の民の迫害の歴史の一端を一瞥したいと思います。彼らの迫害の歴史に対して無知では、われわれ人類にとって恥ずかしいことであり、また本質的な歴史認識の健全な姿勢とは決して思われないのです。ある人が次のようなことを言うのが私の耳に聞こえるようです:そんなに歴史をまじめに考えることはないです。大体の歴史は、歴史学者がわずかな素材をもとに想像で作り上げた虚構の世界なのですから.または素材をなしにただ想像で作り上げた、いわゆる小説と同じフィクションの世界である。歴史を知りたがっている人に、無味乾燥な素材だけでは興味が湧かないので、皆様に喜ばれるように料理人として味付けをしておいしくするためにイメージで作り上げればよいのです。
私は、変な話ですがその意見にはある程度同意いたしますが、この迫害の歴史は、確かな事実でありそれを歴史の世界から隅のほうで押しやったのが不思議でならないのです。何か歴史家または、それに関係する人々の作為的な目的を感じるのです。いつの時代でも何がしかの作為的隠ぺい工作が大きな規模で行われていたことを痛感いたします。これ以上探索すると何か『恐ろしい人間の姿の全体像』が見えてきそうなのでやめにしますが。ただそれに関連して一つだけ言いたいことは、何かの力による故意的な・意図的に操作したのではないかと憂慮します。話が時空を越えて現在でも読者の皆様は、気づいていないのではないかと思われますが、たとえば日本では、テレビの映像放送でわれわれ国民の関心事を何かの力(政治的?)によって(A)から(B)へ向けさせる操作が暗黙のうちに操作されているように感じて仕方がないのです。偉大な法学者でありました末川博がそれと同じような指摘したのを思い出します。具体的な一例として(政治への関心)から(娯楽への関心)への転換です。それによって、国民の過激な革命的な関心を覚醒させなく政治の現状維持の安泰・治安の安定を狙っているように想像いたします。いわゆる、国民の脳を麻痺させているのです。
いづれにしても、先ほどの話題に戻りますが、率直に申しますとカトリック教会の意図的な策謀を見出すのです。キリスト教がなにゆえに『迫害の歴史』を作ったかは、中世の1400年代から数世紀にわたり続いた『異端審問』を紹介すれば十分でしょう。
少し露骨ですが当時の異端審問間の長官であったEymerich NicolasのManual de los inquisidores(異端審問官の手引き)に次のような記録があります 


El tormento no se un medio seguro de conocer la verdad. Hay hombres débiles que, al primer dolor, confiesan incluso los crimenes que no 
han cometido; en cambio hay otros, m
ás fuertes y obstinados, que soportan los mayores tormentos.


(私の翻訳)
拷問は、真実を知るための方法である。意志の弱い人は、最初の苦痛で自分が犯してもいなかった罪を自白します。それとは反対に意思の強健の人は、最後の拷問まで耐え忍びます。

La Inquisición practicaba tres tipos de torturas. La primera era el suplicio del agua: se ataba al prisionero a una escalera inclinada, con la cabeza más baja que los peis, se le mantenía la boca abierta, se le introducía un paño en la boca y se echaba agua que debía tragar; para ello se utilizaba un cántaro que contenía algo más de un litro de agua; durante una misma sesión, se podían administrar a un prisionero hasta ocho cántaros de agua.Otra forma de tortura consistia en colgar al acusado de una polea por medio de una cuerda ataba a las muñecas, y sujetarle pesos a los peis; se levantaba lentamente el cuerpo y luego se dejaba caer bruscamente. La tercera variedad de tortura era el caballete: el prisionero tenía las muñecas y los tobillos atados con cuerdas que se iban retorciendo progresivamente pro medio de una palanca. Según Henningsen, el noventa por 100 de los acusados que pasaron por la Inquisición española nunca sufrieron tortura.

(私の翻訳)

異端審問所は、3種類の拷問を行いました。最初のものは、水の拷問でありました。傾けた梯子に容疑者を縛りつけ体を逆さまにして口を開かせ布切れを突っ込む、そして水が注がれ飲み干さなければならなかった。容疑者に対して1リットル以上の水が入った壷が利用されました。時間内に8個の壷を容疑者へ利用することができました。ほかの拷問方法は、ロープで手首を縛り車輪に吊るし足で自分の体重を支えさせゆっくりと体を起こさせ、そして最後にパタッとたおさせました。最後の第三の方法は、拷問台の登場でした。容疑者は手首やくるぶしをロープで縛られ、レバーによって徐々にねじ上げられてゆくのでした。ヘニングセンによれば、異端審問所で行われた容疑者の100人当たり90人が拷問に決して耐えられなかったのです。

話を本題に戻しますと、キリスト教は、他の諸宗教と同様、規律に囚われた、換言すれば自分らの文章化された『聖典』に基づいた宗教であり、明確に『神』といわれる存在を尊ぶ宗教でもあり,その種の宗教にとっては、文字を持たない・自然界を畏敬する民族の信仰は、宗教とみなされないのです。その点に既成の宗教の排他性・偏狭性を痛感するのです。とにかく、彼ら流浪の民のユーラシアでの登場は、いつごろかといえば15世紀の初めといわれています。では、何故15世紀の初めに彼らが出現したかは、その時期は、まさに中世の終焉の時期であり、都市の発展、貨幣経済の活発化、商業の発展の地域的広がり、利潤の追求などが見られ、物的なもののみならず人的な交流も活発化したのです。そのような状況の下で、彼らはヨーロッパ地域へ移動したのです。但し、残念ながら彼らヨーロッパ人の不寛容な態度によって、彼らはGADSCHO(軽蔑なニュアンスをこめたヨーロッパ人への呼び方)の社会では、乞食や最下層民として位置づけられ、まさにユダヤ人と同じ扱いを甘受したのでした。むしろ、ユダヤ人以下の地位に位置づけられたのではないかと想像いたします。なぜならば人間の習性として既成のグループの縄張りに新参者が同居することは、先住の定住者社会では、彼らは『下』に見られる傾向があるのです。
いずれにしても、歴史上では彼らは、存在しない悲しいグループであり、そのような意味ではユダヤ民族のほうが、変な言い方になりますが、歴史上に銘記され、みなに知られたことの観点からは幸せであったと思われます。皆様もよくご存知の最近の事例として、ナチスによるユダヤ人迫害は、よく知られていますが、その影には常に彼らの存在があり、ひっそりと生きていたことを忘れないでほしいのです。
ここに貴重な資料がありますのでご紹介します。
ある統計資料によれば、第二次世界大戦前は、全ヨーロッパの「流浪の民」の人口は、およそ100万~150万人と推定されていますがナチによる迫害の期間の13年間に40万人が殺傷され、しかもそのほとんどが非戦闘員であったということです。しかしながら、繰り返し申しますが彼らの存在は、歴史のページに載ることがなかったのです。しかし、歴史上では、彼らに対する宥和政策も見出すこともできます。つまり、彼らに対する差別をなくす政策が、オーストリアのハプスブルク家の女帝と謳われたマリア・テレジアの『定住・改宗命令』によって実施された事実も忘れてはならないことです。しかし、その政策は、結局は失敗に終わりました。

彼らの抑圧された迫害の歴史の中から生まれたカンテ(歌)を紹介します。

”フラメンコ音楽のカルセラーレ(牢獄の歌)”
ねござの上に腰を下ろし、頭起こし唖然と、
思い出すのは我が母、我が子、今も元気でいるだろうか?

このわずかな歌の中に絶望感と計り知れない空虚感を私は感じないわけにはゆかないのです。

彼らは、人間界を超越した存在であり、大自然の中に生きていたのであり、そして宇宙と呼吸していたのです。我々は、彼らの生き方に大いに学ぶものあるのです。つまり、自然の中心として我々人間界が存在しているとは、あまりに傲慢な姿勢であり、また大変な錯覚であります。このような傲慢な考えによって、近い将来必ずや『大自然の制裁』が起こることを危惧いたします。ところで、現在彼らの多くは、手仕事によって生活をしています。ここで注目することは、地球を移動する彼らにとっての一番好まれる仕事は、四六時中拘束されない季節労動といわれています。彼らの気質というか本質のところというか『自然界に漂流する民』と感じて仕方がないのです。何か彼らを形容するとすれば、大自然と同じに過去を振り返らずに、また未来を心配せずに、つまり現在に自然の流れに身を任せて漂っている存在である。そのような私勝手な解釈の上に立つと、フラメンコ音楽のリズムの一つである『アレグリーアス』の明るく現在肯定的な、また刹那的な享楽を表現した形式が生まれたのが納得できるのです。前述しました「DUENDE」の存在も何か自然界の霊的なものを指しているように思われるのです。つまり、「神的な存在」なものではないかと想像するのです。いままでは、「流浪の民」と言い続けて固有名詞を使用することを意図的に避けていたのは、それなりに根拠があるのです。人間は、愚かにも固有名詞に対してよく先入観を持ち、また偏見の性癖があるように思われます。私は、彼らのうちなるもの、つまり自然に対する信仰心・自然崇拝・また自由奔放な彼らの生活様式などを直視してほしかったからなのです。彼らは、皆様がよくご存知の「ジプシー」と呼ばれている人々です。フランスのパリに行ったことのある観光客の人々は、『ああ、現地のガイドさんから注意するように言われたあの連中か!あの泥棒とか乞食とか言われている連中か!』と言うことでしょう。確かに彼らの中には、盗みや物乞いをする人もいますが、それを見て彼らの全体像であるの言うのは、あまりにも偏狭的な見方であると思われます。彼らの多くは、何がしかの仕事はしながら生活をしているのです。先ほど言及した季節労働者として従事しているのです。以上の記述から皆様が彼らに対する考えや歴史を少しでも理解して多少なりとも彼らの見方が少し変わったならば、私にとってこれ以上の喜びはありません。

『苦悩・迫害の中から芸術は生まれる』

私は、流浪の民の歩んできた軌跡を考えると、芸術との関連性を認識せずには語れないのです。迫害の観点から、別の例を挙げると『黒人の歴史の軌跡』にも類似性を見出すのです。皆様のご存知のように黒人音楽のジャンルとしてゴスペル・ブルース・ジャズ・ソウル・ファンク・ラップ・ヒップホップ等があります。ところで、彼らの歴史の一端を見ますと、アフリカとアメリカとの奴隷取引きは、植民地における農業の労働需要の拡大に伴って増えたといわれています。1600年代には毎年約5000人のアフリカ人である黒人たちが奴隷とされたか、1700年代には年間30,000人に達し、また1800年代には年間75,000人という記録がありました(「緑の世界史」P.320から引用、クライブ=ポンティング著、朝日選書)。この中で奴隷としてき北アメリカへ連れて来られ強制労働を余儀なくされたのです。このような強制・抑圧・迫害の下に黒人の叫びとして黒人音楽が生まれたのです。その叫びには、アフリカへの郷愁・寂寞・嘆き・深い悲しみが音楽に織り込まれ、『ブラックミュージック』が誕生したのです。
これに関連して取り上げたいのが、私が尊敬する天才音楽家「ルードヴィヒ・ヴァン・ベートヴェン」です。彼の人生、特に幼年期に注目してみたいと思います。ベートーヴェンの一家は極貧のどん底にありました。彼の父は。酒に溺れ、家財を売り飛ばして病弱な妻を抱え、彼自身は家族全員を経済的に支えなければないませんでした。そのような境遇の中では彼が肉体的にはもちろん精神的にも健全に成長したとは考えるのが難しいと想像いたします。父親(ケルン選定候宮廷礼拝堂のテノール歌手ヨハン・ヴァン・ベートーベン)は、自分の子供の第二子であるベートーヴェンの音楽的才能を早い時期に見抜き、彼に全面的に期待を持ち、つまり彼を磨き上げれば、この極貧から抜け出せること、自分の好きな酒を浴びるほど飲めると思い描き、ベートーヴェンに厳しすぎるほどの音楽の勉強をさせたのです。彼は、ピアノの鍵盤の上で眠ることもたびたびあったといわれています。また、彼は、よく音楽の稽古を怠けると父親の大きな手が彼の顔に向けられたのでした。私は、そのたびたびの顔の殴られ方が彼の耳のところも含めて殴られたのではないかと思われます。それが原因で30歳のころからの耳の不調の原因があったのではないかと推測するのです。彼から見れば、父はふしだらな・どうしようもない・無責任で精神的に不安定な、つまり、不道徳・不純・悪魔等の化身そのものでなかったのではいかと思われます。また、彼によって一家の大黒柱の全責任としての自覚が20歳前後の彼の両肩にのしかかったのが、彼にとって大きな重荷であったことでしょう。
以上のような状況の中で、彼は、普通の人として人生を満喫して、楽しい幼年期、青年期を過ごすことがなかったのです。ある意味では、自分の不運を呪い、蔑み、自分を抹殺することも考えたことでしょう。しかしながら、他方では、彼の性格からして現実に目をやると自分勝手な考えや行動をとることがいかに難しいかの心の葛藤をしたことでしょう。結局は、まさに諦観の心境に突き進み、自分のすべての内的な考え、衝動を音楽へ傾倒して行ったのではないか,だからこそ強烈なエネルギーが彼の音楽作品に投影されたのではないかと想像するのです。また、彼の聴覚のシャットアウトのことも彼の作品に大きな影響を与えのです。つまり、彼は、人生を苦悩と受け止めるところに彼の人生観の根本を見出せるのです。

「アニミズムの考察」
ここで、流浪の民である「ROMA」の信仰との関連で大自然を畏敬し崇めるアニミズム信仰心のある民族、つまりゲルマンの民・ケルトの民・東南アジアの民・そして日本の民にも見出せるのです。それらの民の信仰心を探ってみることは大変価値があると思いますので、この章で取り上げたいと思います。まず、ゲルマン人は、典型的な『自然崇拝の民』であり、たとえば、北欧のゲルマンのオーディンは、主神で戦争・死・知恵・詩・魔術の神(但し、南のゲルマンのウォーダンは、主神であり、風の神である)であり、トールは、力の神で雷・農民の神(南のゲルマンではドナール)、フレイは豊穣の神、バルドルは光の神、マーニは月の神、ソールは太陽の神などであり、地・水・日・風の四大元素に対し人間に害を与えないように祈ります(「エッダとサガ」P.25~P27から引用、谷口幸男書、新潮選書)。

そして、収穫が無事に済んだときには、大地の霊、大地母神・主神、風の神に供えをして唱えごとをします。彼らの歌をお聞きください。

    さあ、風よ、これはお前の子供のための麦粉だ
    吹き荒れるのをやめよ
    雄風よ、雌風よ、ここにお前の食物を置く
    お前たちは、わしの言うことを聞いてくれ

*『ヨーロッパの祭りと伝承』P.22~P.23から引用、植田重雄著、講談社学術文庫

また、忘れてならないのは、森の精霊、樹木の精霊、水の精霊の信仰が存在したことです。

次に、ケルトの民を取り上げますと、彼らは、古代ヨーロッパで活躍した印欧語族の一派です。彼らは、紀元前3000年ごろ北方文化圏を形成し紀元前2000年ごろから移動をし始め、次第に全ヨーロッパへ浸透してゆきました。ただし、前1世紀ごろローマ帝国によって敗れてしまったのです。彼らの社会の基盤は、農耕や牧畜が主であり、自然の中に神々がいるという信仰の中で生活をしていました。例えば、全能の神(豊穣)、太陽の化身ルフ(技芸)、マトロナ(地母神)、ケルヌンノス(森)、マナーナーン(海)を信仰し、また輪廻信仰を持っていました。その点は、仏教との類似点を感じるのですが、根本的な相違点は、死とは怖いものではなく、またこの世に生まれ戻るという考えで、他方仏教では、この世は娑婆と呼ばれ苦難の世界であり、その輪廻のサイクルから解脱をしない限りその苦難の道が永遠に続くという現世悲観論を展開しています。結論として、Celts(ケルト)は、現世肯定型であり、仏教は現世否定型であると思われます。この相違の根源的な由来は、ケルトは、自然のリズムからの啓発であり、他方では仏教は現世の自然への関心が希薄、解脱を通じて涅槃の境地、つまりご来迎の世界への追求型の宗教観が存在しているように思われます。また、キリスト教では、直線型の宗教観であり、ある意味では「人間中心思想」であり、人間以外は人間界の下位におきます。しかしながら、ケルトの民は、キリスト教に征服され同化の道を余儀なくされましたが、彼ら本来の精神的な自然崇拝観を失うことはなかったのです。

彼らの詩篇にそれが窺えます:

A hedge of trees surrounds me.(木々の茂みが私を包む)
A blackbird's lay sings to m
e.(真っ黒な小鳥たちが、歌を私の耳元で唱        和します)
Above my lined booklet.(私が行を追って読んでいる書物のずっと上のほうで)
The trilling birds chant to me.(旋回している小鳥たちが、私に詠唱します)

In a grey mantle from the top of bushes.(茂みの頂から灰色のマントを羽織)
The cuckoo sings.(カッコウが詠唱します)
Verily-may the lord shield me.(まことに願わくば、主が私の盾になってくださることを)
Well do I write under the greewood.(緑林の下でその願いの句が銘記出来ますように)
*日本語訳は、私の試訳です。
*The poems above are quoted from 「The Celts」(by Nora Chadwick published Pelican Original,P219) 
以上ゲルマンとケルトのものを見てきましたが、現在でも一神教のキリスト教の影響が色濃く残っているヨーロッパの国々のお祭り行事に溶け込んでゲルマンやケルトの文化が息づいています。
次に東南アジアの民の宗教観を見たいと思います。
根本宗教は、彼らにとってはアニミズム信仰であります。本来アニミズムは、人間の霊魂が人間から独立していろいろなところへ浮遊するものであり、また人間以外の動植物やその他の自然物からの霊魂が精霊といわれています。この両方のものを含めた霊的存在への信仰が「アニミズム」と定義されています。例えば、タイ族やラオ族の「ピー」、クメール族の「カモーイ」、ビルマ族やカチン族(ビルマ北部山地の種族)の「ナット」、マレー族の「ハントゥー」などと呼ばれる生霊・悪霊・死霊・祖霊・魔女・妖怪などの総称であります。←『東南アジアの理論と心性』P.48~P.49から引用。以上は、東南アジアものですが、インド・スリランカには、アニミズムの一形態である『樹木崇拝』があるそうです。日本ででも霊的存在が動植物・無生物に宿っている信仰があります。例えば、動物では狐が「お狐さん」として稲荷神社で神として祭られ、また無生物である『石』が祭られている神社もあります。また、大きな木は、神が宿っていると信じられて『神木』として崇拝されています。また、私の個人的に興味のある神社があります。その神社は、以前訪れたところであり、その神社の名前は「県(あがた)神社」と呼ばれています。その本堂には、なんと「人間の男性のシンボル」が祭られていました。子孫繁栄の神社なのです。
総括として、以下に世界的な宗教の世界観について一瞥しますと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道等を概観しますと、「神・人間・大自然」の構成が、石田英一郎の『文化人類学ノート』によりますと、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は唯一絶対神を信仰し、男性であり父である神が存在し、ヒンズー教は、大地の母子であり、女性の神格として顕在します。日本の民族宗教も後者であるヒンズー教の範疇に入るといわれています。岸本英夫の「世界の宗教」によれば、世界観の三類型を構築しているといわれています。つまり(1)宇宙の中に神と人間が共存(日本の民族宗教の場合)(2)神が人間を含めた宇宙の外在の存在(キリスト教、イスラム教の場合)(3)宇宙の中に人間のみが存在して、神の存在否定(仏教の場合)です。R=レッドフィールドによると、人間と人間に対面する存在としてのALTERなもの、つまり自然と神が存在するものとして区別しています。(1)神が上位で自然や人間が下位に位置して横並び(2)人間が上位で自然・神が下位で横並び(3)自然が上位で神・人間が下位に位置し横並び。つまり、(1)については、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの諸宗教がそれに該当し(2)については、としか・産業化の環境の中で『個人の覚醒』、自己表現の発露による『人間中の世界観』の誕生(3)については、ケルト人やゲルマン人の宗教観、アジアの民族宗教つまり「アニミズム」がそれに該当するということです。
ここで、先ほどの引用した「自己表現の顕在化」の言葉に関して、私の考え方を若干補足しますと、絵画にしろ音楽にしろ演劇にしろ、すべては自分から発した「自己表現の顕在化」であり『自己の感情の表出』であります。その限りでは、芸術イコール人為的なものという狭い範疇に陥ってしまい本来の芸術の無限性を否定してしまうのです。そのような偏った理解は、本当の芸術を無視し、まさに残念ということしか形容するしかありません。

私は、大きな声で言いたいのです。
雲海の曙の神々しさ,大海の白波の勇敢さ、山々の林間に差し込む光の幻影、山々の頂を照らし出す雲の間からの一筋の光の透徹さ、山間の小鳥たちの優しいさえずり、太陽が地平線の彼方へ沈んでゆくときの寂寞感、夕と夜の間の大空の星々の宝石のような輝き
自然の作り上げた「美」に目を向けてください。きっと「芸術の究極美」を我々人間に教えてくれることでしょう。

(自作のつぶやき)
夜の展開の幕に吊るされている煌めく星を見上げてください
あなたの心が悲しいとき、きっと温かい手のひらであなたを包んでくれることでしょう
あなたの心が寂しいとき、きっとあなたのそばに来て優しい言葉をかけてくれることでしょう
あなたの心が辛いとき、きっと優しき言葉であなたを慰めてくれることでしょう
そして、あなたの心が楽しいとき、きっとあなたと一緒に飛び回ってくれることでしょう


日本風景画の巨匠である東山魁夷の次の言葉にすべてが語られています。

『私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。自然は、心の鏡。』

話が『芸術の無限性』へ話が行ってしまいましたので、この辺で本来の主題であります『宗教と芸術』に話を戻しますと、ポエムの世界では、偉大な詩人でありますリルケの詩集は、宗教的な要素がかなり踏襲されていますが、同時に芸術作品としての価値も多くの人々に認められています。
この辺でリルケの詩集の一片をご紹介したいと思います。

Da neigt sich die Stunde

Da neigt sich die Stunde und ruhrt mich an mit neigt sich die Stunde und ruhrt mich an mit klarem,
Metallenem Schlag:mir
Zittern die sinne. Ich Fuhle:ich kann---
Und ich fasse den plastischen tag
(訳)
時は、終わろうとしている
時は、終わろうとしている、それは私に優しく触れる、澄んだ響きのよい音と共鳴しながら:その雰囲気の感覚に私の心は小刻みに震える。私はできるーーーそして、私は、形が縦横無尽になる朝を迎える

Nichts war noch vollendet, eh ich es
Erschaut, ein jades warden stand still.
Meine blicke sind reif, und wie eine
Braut kommt jedem das ding, das er will.
(訳)
何も仕上げられていませんでした、私が心の目で見るまでは、それぞれの形になるものが静寂の中に佇んでいました。私の洞察力は、完璧であります、そして新婦のように、彼が望むようなものが各人に来ます。

Nichts ist mir zu klein und ich lieb es
Trotzdem und mal es auf Goldgrund und gross, und halte es hoch, und ich weiss
Nicht wenn lost es die Seele los---
(訳)
私にとって小さすぎるものは何もない、そしてそれにもかかわらずそれらを愛しています、いつか金の地面にそれらがあり、そして大きくなり、それら
が高く伸び、そして誰によってその心が剥ぎ取られるのかを私は知らない。
(リルケの詩集より)*翻訳は、私の試訳です。
注釈として上記のドイツ語文の中のいくつかの単語には、ウムラウトが必要な単語ですが、故意的に付加していません。なぜならば、このブログには英語以外の外国語に対応していません。ご了承ください。)

ここでは、難解な哲学的セオリーを述べようとは毛頭ありません。唯私が指摘したいのは、『芸術とは、宇宙を超越した何かの存在と同一的なもの』と一致するように理解できる領域ではなく、感覚として感じるのです。もともとそれを理解することは不可能であり、また不合理であります。芸術とは頭で理解するのではなくcordis(心)とmentis(精神)によって受け取るべきであり、心が感じれば必ず精神が覚醒して人間の肉体へ連鎖しカラダ全体で感じ取ることができるのです。そして、人間の外輪である大気と協和するのです。『何かの存在』とは、神的な存在であるかもしれません。

ここで少し文脈からは、逸脱してしまうのですが、気になる文章を発見したのでここで原文を紹介したいと思います。なにか『芸術の核心』をついているように思われますのでどうしても掲載したいのです。

An artist must be a master or nothing...In learning,on the other hand, a man can only be a master in one particular field, namely as a specialist,and in some field he should be a specialist. But if he is not to forfeit his capacity for taking general views or even his respect for general views, he should be an amateur at as many points as possible...Otherwise he will remain ignorant in any field outside his own speciality and perhaps, as a man, a barbarian. (Quotation from" The letters of Jacob Burckhardt")

上記の文章は、英文でありますのであえて訳しませんが、私がこの文章から感じたことは、芸術家は、支配者であり、また何者でもなく大気のような存在である、専門家になってはいけないと偉大なブルックハルトは重要な指摘をしています。私は、まったく同感です。芸術家は、本来地位や名誉、金銭求めるのではなく、もっと崇高な存在であるべきなのです。現実世界では、彼らは一般の人より貧しく、目立たない存在であるのが「本来の姿」だと思われてならないのです。以前別なところで述べましたようにそのような環境の中から本物の芸術が誕生する公式が存在すると確信するのです。あまりこのテーマにどどまる時間がありませんので本題に戻りたいと思います。

その存在を想像して生成したのは『神のなせる技』を感じるのです。結論的にいいますと、芸術は、すなわち神の存在そのものなのです。一番身近な理解として、現在ではキリスト教・仏教・イスラム教・ヒンズー教その他いろいろの宗教が存在しますが、私が表現したいのは、損らの諸宗教を超越した『宇宙の究極的存在』なのです。人間は、その存在に接近するために人間のEmotionが,諸宗教のいろいろな効果音を利用するのです。人間は、それらによってまさに恍惚状態に導かれるのです。具体的には、仏教の場合、宗派によって多少の相違がありますが、一般的に般若心経や法華経などの読経があり、それを唱えるとき太鼓やその他の音を打ち鳴らし、それらの共鳴があり、神道では、祝詞のときに太鼓や鈴の音のハーモニーがあります。キリスト教の2太宗派(カトリックとプロテスタント)のなかでカトリックは、教会の基本文章である『三要文(信条・主の祈り・十戒)』を唱え、オルガンに合わせてコーラス隊が『神を讃える歌』を合唱します。イスラム教では、モスクから町中に響き渡る『アザーン』の声の神秘的な雰囲気があります。実際、私がトルコやエジプトを訪れたとき、その幻想的な響きによってムスリムの世界と自分との不思議な一体感を感じました。また、それら自分たちの宗教の神への存在を肌で感じる効果として、その『空間効果』も大きく寄与しているのです。事例として、仏教では、『仏』の存在感を感じる境内の山門・参道・仏舎利等・本堂・奥の院等の空間は位置、キリスト教の教会の内部の暗闇・ステンドグラス・キャンドルの光・中心に位置する(
続く)

Saturday, 18 November 2006

私の感じたままに

先日、秋も深まりつつあったころ京成線の中山駅を降り立ちました。心は仕事もなくうちに一人でいても仕方がないので、寂しさを忘却のかなたへ押しやるつもりで、ここ中山駅へ来たのです。過去に2・3度訪れているのであるが、古の風情を感じるところである。中山法華経寺への参道のお土産店の数の少ないこと。寂れた参道の印象を受けます。道を行き交う人々の顔にも何か精気を感じない。そのような見方をする自分の心の中の鏡が曇っているからであろうか?そのような見方しかできない自分が情けなく、またその人たちに失礼な見方をして悪かった気持ちに襲われるんです。--いつまでもその気持ちを持ったまま参道にとどまっているのが、気恥ずかしくなってきたので、再び歩き始めると、目の前に法華経寺の玄関である山門の左右にある大きな仁王さんたちに出迎えられ、ふとその境内の概略図に目をやると、見慣れたはずの地図に右上の方に奥の院と書かれていた文字が目に入りました。私は、そこへ言ってみたい衝動に駆られ、仁王門の本道へ通じる道からわきへそれ車道に出て、秋の夕方の日差しを体全体に浴びながら、のらりくらりと坂道を10分ほど歩いたところで、まるで女性のスカートを広げたように何段もの石段を敷き詰めている情景に出会いました。そのスカートのベルトで締め付けるあたりにお寺があり、こちらを向いて立っていたのです。ふと、現世の悩み事を忘れさせるものでした。そして、われに帰り再び坂道を『奥の院』目指して歩き始めたのです。しばらく行くと、道の分かれ道に、それは『奥の院の道』と書かれた見るからに崩れ落ちかけた石碑に目が留まり、坂道に点在する住居となんと不釣合いにあることかと思ったものです。(今この暮れのクリスマスの時期に、そのときの記憶をたどると頭の中にある混乱が生じてしまうのであるが,とにかくそのときのことを書き留めておかねばならない焦燥の駆られるのです)とにかく、坂道をのぼりきり、あたり一面が開けた場所に辺りを見回してみると「奥の院」らしいものがないのである。しかし、ちょっと狭い道に入ってみると、見るからにいにしえのにおいがする山門が私の眼前に立ちはだかったのです。境内を恐る恐る眺めて見ると、私以外にいないらしく静寂に包まれた落ち着いた空気が漂っていました。境内の中ほどで本殿の朱色の飾り立てられたファサードに見とれていましたが、ふと、背後のことが気になり後ろを振り向くとなんと、幾千もの水子供養のお地蔵様さまが立っていました。また、本殿の右手奥には、滝つぼがあり10メートル以上の岩から水が流れ落ちると思われました。つまり、私が見たときは、水がなかったのです。あくまでも私の想像ですが、流れ落ちる姿は、爽快な眺めであるのでしょう。(続く)

吹上の長野公民館での印象
日時:2009年2月21日
高崎線の吹上駅へ降り立った時、晴天にもかかわらず冷たい風が吹きずさんでいました。降りる人もまばらで何かより一層寒々した感じがしました。駅の周辺には、コーヒーショップが一軒もなくそそくさとタクシーに乗り、10分ほどで公民館に到着しました。着いてみますとなんと都会とはあまりにも違う風情を漂わせていました。(続く)

2009年8月29日深夜
8月30日は、衆議院選挙の投票日です。
私は、人生は一度の信念で、今回の衆議院選挙に立候補しょうと考え、3週間ほど前に「衆議院選挙の立候補者の説明会」に出席しました。そこで、選挙管理委員会の係りの人が、いろいろのお金がかかることを説明されました。つまり、まず国への供託金として300万円を事前に納めなければならないこと、そして確定投票率の10%(?)以上の票を私が獲得しなければ、その供託金は政府へ没収になること、また選挙活動の諸経費は(但し、選挙管理委員会が立候補者へ準備していただける費用は除く)、自己負担になると説明されました。勿論、自民党や・民主党などの党から公認の立候補者は、それらの党から資金が出るので個人で選挙運動の資金を負担する必要がない仕組みなっているようです。
結局は、貧乏人は立候補できない仕組みになっているのです。今回は、無所属で立候補しょうと思ったのですが、今の選挙の仕組みで、私の決意を打ち砕かれてしまいました。

9月1日
選挙が昨日終わった。なんだか、むなしい気持ちでいっぱいです。私みたいないわゆる「低所得者」のような人が、今のような雇用問題で困っている人々の気持ちを十分理解しているので、議員なったほうが絶対に良いと思うのです。今の私の状況は、年間収入がたいへん低いために「低所得者」に認定され、暇があれば、ハローワークへ足を運びます。ハローワークでよい求人があっても50代ですので、よく求人先から断られてしまうのです。
(続く)

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