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俳優:岩崎秀夫の素顔

  • 著名な政治アナリストである伊藤惇夫氏と私。
    私の好きなスケッチです。

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December 2006

Saturday, 23 December 2006

私の講演テーマ

<15テーマ>

(1)人生はすばらしい、無限の可能性がある
*自分の経験談

(2)演劇を通じて学んだこと
*人間形成に役立つ演劇について

(3)音楽を通じて学んだこと
*人間の感情面・情緒面について

(4)英語教育について一言
*外国語崇拝による母国語軽視の危険性

(5)ヨーロッパ中世の世界とは?
*中世からわれわれは何を学ぶべきか?

(6)40カ国以上の渡航経験から学んだことは?
*多面的文化について比較文化の見地からの考察

(7)まもなく退職、第二の人生をいかに充実に過ごすか?
*自分の日頃感じていること、また海外の諸ケースを紹介

(8)芸は身を助けるといわれています、
貴方もギター演奏の芸を身につけませんか?
*ギターのすばらしさを知ってもらいたい

(9)120分で簡単なギター演奏ができます
*短時間でギターの演奏法を伝授します

(10)第二の人生で、貴方も俳優業に挑戦してみませんか?
*俳優業ほど人生で挑戦するだけの価値があります

(11)私のボランティア活動から考えることは?
*本当のボランティア活動について提言

(12)これからの時代は、英語だけではダメ、ポリグロット(数ヶ国語に通じた人)になりませんか?その方法を伝授します
*言語の面白さ、神秘な言語世界へご案内します

(13)孤独について
*多くの歴史上の偉人の孤独の効用について考察し、それから孤独の価値について提唱

(14)ピアノを弾いた経験がない中高年の皆さん!ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」第一楽章に挑戦してみませんか?きっと新しい世界が見えてきますよ。

(15)『黒死病』の歴史の考察
*中世ヨーロッパを蹂躙した「黒死病」が現代社会に警告していることは何か?

*最新講演活動情報

*2009年2月21日(土曜日)埼玉県行田市長野公民館にて講演会

講演テーマ「人生は素晴らしい、たくさんの可能性がある」

Saturday, 09 December 2006

我が旅考察論

Meiner Ursprung der Reise
芸術とは関係がないと思われる方もいらっしゃると思いますが、「旅(たび)」について考えることは、「人生」すなわち「人間の内面性を追及する芸術の一分野」だと確信いたします。「旅とはなんぞや?」といつの時代でもどの場所でもみなが考える人生のテーマのひとつではないかと思われます。これから数章で私が日頃「たび」について考えていることを記述したいと思います。少し、学問的になって堅苦しい内容になるかと思いますが、何かのヒントをつかんでいただければ幸いです。
日本と西欧との時代的背景・その時代の旅人の事例、特に「聖地巡礼」の旅行為を通じて比較文化の視点より時間・空間性を貫いて妥当する「旅行為の普遍性の要因とは何か」を考察します。
本来のたびの源泉は、洋の東西を問わず宗教的な性格であり、、いわゆる「聖地巡礼」でありました。響庭孝男矢氏曰く、「人間は、俗の中で暮らし、俗界こそ人間の戦いの場であり、また夢見る臥所(ふしど)であり、救いの道はないかと思い巡らすものである。そして古代の人間が、俗界と対立する「聖なる空間」を設定したのでした。俗の中に生きる人間は聖なる場所を必要とし、そこへ「行」ことによって身に染み付いている俗臭を払いのけ、禊(みそぎ)をし、「自己浄化」をしてきたのである。」として「聖地巡礼」成立の心理行動を的確に指摘しています。聖地巡礼は、古代エジプト・メソポタミア・ギリシャからあり、その後キリスト教・イスラム教世界でより一層盛況を呈し、現在でも息づいています。
世界的規模で概観すると、例えば、西欧のキリスト教国では、巡礼地としてローマ、イベリア半島のサンディアゴ=デ=コンポステラ、ファーティマ、フランスではルルド、リジュー、中世末最大の巡礼地のひとつサン=ミシェル=ド=モントンブのモン=サン=ミシェル、イタリアの聖フランチェスコで有名なアッシジ、ロレット、パドヴァ、ガルガノ山、ベルギーのモンテギュー、ルクセンブルグのエヘテルナハなどであり、イスラム教国では聖地メッカであり、東洋圏では韓国の慶州にある石窟庵、タイのバンコックにあるワット=プラケオ(エメラルド寺院)、日本では伊勢参詣、四国遍路巡礼、西国三十三所巡礼などが取り上げられます。
西欧では、『巡礼』のパターンが3つ指摘されます。(1)キリストのかって存在した場所へ行き、キリストと同じような心的状態を味わいたい。エルサレムやペテロのローマ巡礼である。(2)地方の聖人です。例えば、トゥールに聖マルタンという聖人が起こした奇蹟。(3)サンチャゴ=デ=コンポステラへの大巡礼があります。スペインの西端にあり、聖ヤコブの骨が発見されたと言い伝えられています。
ここで、『西洋中世と日本の江戸時代の旅』について考察して見ますと、前項の巡礼のパターンのうち(3)のパターンである中世最大の巡礼地であるサンディアゴ=デ=コンポステラを取り上げたいと思います。当時を知る重要な資料として、『その巡礼案内書』(12世紀中ごろの資料)がある。道・宿・飲み水・救護所(教会)などの土地の風俗を紹介されています。中世のたびは、婦人や商人たちが馬やロバを利用したが、その他の旅人や巡礼者たちは徒歩でありました。徒歩であったので当然盗賊や追いはぎに襲われることしばしばで、例えばコンポステラへのフランスから行く場合、道路が整備されてないピレネー山脈を越えること自体が大変なことであり、その上、巡礼者を狙った盗賊が出没したのであります。たとえそれに遭遇しなくとも、旅人は常に盗賊や追いはぎへの恐怖感や警戒感のためにいつも神経を使わなければならなかったです。追いはぎをするものとしては、経済的に窮乏した貴族や騎士・戦争がなく給料をはらってもらえない傭兵たち・罪を犯したり借財したりして領主のもとを逃げ出してきた農民たちでありました。また、徒歩の旅人が危険と隣り合わせであったと同様一人旅も大変危険を伴ったものでした。当時の旅人は、大半が商人と巡礼者であり、特に商人にとって一人旅を避けて普通はキャラバンが利用されたのでした。両者とも可能な限りひとつのグループになって集団旅行をし、防衛しながら陸路や水路を旅したのである。一人旅と見れば、領主役人ですら強盗に早変わりし、衣類金品から生命までをも奪って、死体を隠し知らぬ顔という有様でした。そうような状況では、巡礼をやめればと思うが、なぜそこまでして「巡礼を強行」したのかの動機として、いろいろな苦難を超えて一心に巡礼への激しい求心性を持ち目的地の到達すれば報われる、という信仰がありました。それに関連して興味のあるのは、前述の「コンポステラ巡礼案内書」には悪魔の記述があり、旅の途中に悪魔との戦いの話があります。
他方、日本では、巡礼地として伊勢神宮への参詣が近世に入って急激な増加を見て、それと同時に高野山や熊野山へのような一ヶ所に限定するのではなく、複数の場所を「巡歴」する思想が生まれてきたのです。伊勢参詣のほかに江戸時代の四国遍路巡礼もその一つであります。江戸時代になると、江戸幕府は全国支配を確立するために江戸から各地へ通ずる道路を整え、宿場を設けたりして交通・通信網を整備しその巡歴が容易に可能となっていきました。また、伊勢神宮への参詣も一般大衆化の一途をたどり建前は信仰のための旅であり、本音は物見遊山しながら参詣する旅行形態が盛んになったのである。あの十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の弥次郎と居候の北八に窺えます。
また、四国遍路巡礼も同じような二面性を持っていました。例えば、江戸時代の文政(1819年)の春に旅立った新井頼助と彦兵衛の57日間の物見遊山のたびがあります。勿論、現代の放浪詩人と謳われた種田山頭火や高群逸枝らのような一心に一つの目的を持った人たちもいたのであるが。また、極端な言い方をすれば、「物見遊山」を「多次元(多空間)の世界に遊ぶ」と同一に見なせば、『奥の細道』の松尾芭蕉の行動形態もその中に入るのではないかと思うのです。それと同様の論述は、エッセイストである山本さとしの「旅の目的」で指摘されています。
一般的に、江戸時代のたびはいろいろの不都合の中の一つに「飲み水の確保」が指摘でいます。例えば、芭蕉は、「奥の細道」の旅の途中で家々で「湯」を所望したが、(当時は、「旅先では決して生水は飲むな」とされていた)すべてのところで断られ、苦労したらしいのである。西欧の旅と同じく日本の旅(参詣)は危険でもありました。例えば、『旅行用心集』には、「怪しき人に道連れして、一つ宿にとまりて荷物をすり替えられ」と述べられ、道中の『ごまの灰』の横行があり、『雲助』もいました。そのような危険な旅にもかかわらず流行した理由として(1)14・15席の南北朝・室町時代には農村部では二毛作が可能になり生産性向上を促し、また都市部では商業の発達民衆の力が増し、旅についても古代国家時代の平城京・平安京の建設、防人などの『国家命令の旅』ではなく、「自由な旅」の思想が普及したこと、(2)「旅』は、当時の人にとって成人として認められるための『成人儀礼』とされていたのであります。以上の東西の比較から理解できることは、
ある文化は「いくつかの目的地へのプロセスの努力」に重きを置き、別の文化は「一つの目的地という終着点」、すなわち「聖地」に力点を置いているのである。前者の例は日本の場合であり、いわゆる日本の宗教的風土が多神教ないし汎神論的なものと関係があり、後者の例は西欧のキリスト教や中近東のイスラム教という一神教と関係があります。
この両者の考察として2つのテーマから論じてみようと思います。(1)それぞれの地域で育まれてきた宗教的世界観の相違、(2)思考形式の文化的相違の2つです。まず(1)の視点から考えてみたいと思います。日本人の場合は、現在では例えばお正月には初詣のときは神道である神社へ参拝し、お盆やお彼岸のときは皆揃ってお寺へ繰り出し、クリスマスのときにはキリスト教徒でもないのにお祝いをします。そして、不思議なことにそれら3つの宗教が自然に日本人の心の中に定着しているのです。このことから現代の日本人の世界観とは、神道・仏教・キリスト教が仲良く融合し、また別な見方をすれば、和辻哲郎が「風土」で言及しているように『モンスーン的な受容性は日本人においてきわめて特殊な形態をとる。第一にそれは熱帯的・寒帯的である。すなわち単に熱帯的な、単調な感情の横溢でもなければ、また単に寒帯的な、単調な感情の持久性でも豊富に流れ出でつつ変化において静かに持久する感情である。四季折々の季節の変化が著しいように、日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する』と語っています。つまり、日本人は一つのものだけに固執しなく、次から次へと移り変わりを好む『周遊』の性癖があるように思われるのです。そして、日本では昔から神道・仏教・民間信仰が仲良く3者融合し、あるときにはその一つが顔を出し、またあるときには別のものが利用される傾向がある。換言すれば、3者は一つの連続体である。但し、日本教ともいわれている民間信仰という大きな円があり、その中に神道・仏教・キリスト教があると宮家準が『日本の民族宗教』の見方もあります。また。’日本人の周遊癖’は、日本人の宗教的世界観の現世中心の側面と深い関係があります。日本人は寺社に行って神や仏に祈るときは、一心に一つのことではなく巡り巡る(周遊)現世的な多種類の願い事である。例えば、家内安全・無病息災・商売繁盛・受験合格等の現世のものである。
この日本人の周遊癖について、加藤秀俊は『新旅行用心集』の中で2つの興味のあるご指摘をしています。一つは、平安時代末期に始まったといわれる千社詣での習慣であります。つまり、千の聖地をお参りすればご利益があること、その習慣と関連して、後に江戸時代には『千社札(せんじゃふだ)』の習慣が普及したのであります。『千社札』と呼ばれる小さな木版刷りの紙札を参詣した先の寺社の本堂だの山門に貼り付けることであります。二つ目には、「集印帖」の変形であるJRの主要駅のスタンプ台の設置利用(私見である:最近のスタンプラリー)。「集印帖」は寺社を巡礼するとき持ち歩き、お参りした寺社の印をいただけるのです。この伝統は現在でも消えていなくスタンプ台の設置に息づいています。他方、西欧人の場合は、キリスト教の行事のみに参画するのです。例えば、復活祭・四旬節・クリスマスなどに窺えます。日本人のように他の宗教を「周遊」することがなく、一心(直線型)にその宗教のみを信仰するのであります。キリスト教の世界観は、神・人間・自然の3者は絶対的に融合することがなく分離した距離を置いた存在であります。つまり、3者には明確な主従関係があり、最高位には神があり、
次に人間そして一番下位に自然が続くのです。この関係図の中に直線的な世界観を認めることができます。また、キリスト教では、日本のような多種類の願い事をするのではなく、ただ一心に全能の神を信じて、現世で犯した罪を絶えず悔い改めることにより、最後の審判の結果、天国で永遠の生命を授かることです。言い換えれば、来世信仰です。この点でも、キリスト教の場合は、一つの目的に向かってゆく思考が窺われます。イスラム教の世界観もキリスト教と同様、一心に(直線型)最高神であるアラーの神のみ崇める。イスラム教の教義の中に、死後の人間は来世において復活し、善人は天国で祝福を受け、悪人は地獄で責め苦を受けるというキリスト教徒同じ来世信仰があり、またイバーダートという五行があり、信仰告白、断食、巡礼、礼拝、喜捨とそれに関連した行事のみを行えばよいとされているのです。
次に(2)のテーマである思考形式の文化的相違の考察として、石井敏氏は、「文化とコミュニケーションのかかわり」の中で、思考形式の定義を次のように述べています:人間が自分の考えや感情を言語および非言語の記号に変換するときに行う記号の選択と配列の一般的傾向があります。つまり、自分の考えや感情を表わすときに文化的環境圏内で出来上がった適切な言語を選択し、一定の配列に従う。米国のロバート=キャプランのアメリカ人学生と外国人学生セム語系=ユダヤ系、東洋語系、ロマンス語系、ロシア語系)の思考形式の文化的相違に関する興味ある報告があります。例えば、英語系アメリカ人の場合、目的地(核心)に向かって一直線に進む思考であり、東洋語系の人は、目的地に進む場合いろいろな場所を寄り道しながらの思考傾向があります。つまり、渦巻状思考です。また、ロマンス語系の場合は、アメリカ思考に類似性を認めるのです。この報告から、一つの行動(巡礼・参詣行動)に文化圏内の思考形態が大きく影響を与えているといえると思われます。また、文化人類学者の第一人者である青木保氏によれば、巡礼には、西欧や中近東などでは目標が一つだけであるタイプがよく見られ、日本や東南アジアでは巡り歩くほうに重点が置かれているようである。また、巡礼には中心に向かう型と周辺に向かう型があり、西欧には前のタイプが、日本には後のタイプが多く、それぞれは対応する精神の型を示している。以上の考察から次のような結論が導き出されるのです。つまり、『巡礼という旅行為』を通して、それを宗教的世界観・思考形態の視点から、日本人の『旅行動』は、概して周遊的・変動的な性向があるが、西欧人・中近東のそれは、目的に一心に向かう直線的な性向が顕在化してくるのです。現在の日本人旅人は、短い時間でより多くの巡礼地(観光地)を巡歴する『周遊型パックツアー』を好む傾向があり、観光地側にとっては、旅人は旅客というより過客であると。また、欧米人の旅は、一ヶ所滞在型が多く、特に、フランス人は、一人当たりのバカンス日数は、平均19日間といわれ、夏のバカンス実施率は、人口の5割を超えるといわれています。それらの社会現象は、一つの側面として以上の考察分析から容易に把握できると思われます。
このテーマを終えるにあたって、最後に旅の言葉の語源をちょっと取り上げようと思います。Travel(旅)の言葉の語源が、フランス語のTravail(苦労する、渡り歩く)と同義であるように『旅には常に辛苦が隣り合わせ』である。柳田邦男氏が『青年と学問』の中で同様な指摘しています:タビというの日本語はあるいはタマハルと語源が一つで、旅は憂いもの辛いもので、辛抱であり、努力であった。

Die Nachschrift(追稿)
西欧では、ギリシャ時代の話は、スペースの関係で割愛しまして、ローマ時代から話をスタートします。その時代の公共サービスは、18世紀の西欧社会などより行き届いていまして、帝国の範囲には、10万キロに及ぶ高速道路があり、イタリアだけでも約400の幹線道路があり、この道路網上に秩序正しい交通が展開されていました。カエサルは1500キロを8日で踏破したほど整備されていたそうです。交通施設は、1キロごとに最寄の町からの距離を示す里程標があり、10キロごとに駅(スタティオ)があって食堂・宿舎・馬舎・貸馬が備わっていました。30キロおきに広く立派な宿場(マンショオ)があり、娼家までありました。富豪は馬車を連ねて旅行し武装した従者に守られて車中で眠ったということです。現代に劣らず旅行は盛んでした。ローマの青年は、第一に旅行の経験をつんで始めて教養が完成されると信じていました。中世の旅は、婦人や商人たちは馬や驢馬を利用したが、その他の旅人や巡礼者たちは徒歩でありました。各地方の教会、修道院、聖跡を尋ね、キリスト生誕の地エルサレムに行く巡礼にとっては、危険と困難に満ちた旅そのものが霊魂救済のための祈りでありました。道路は整備されてなく夏は埃、冬は泥んこであった。それゆえに、道路や橋を作ったり、補修したりするのは、当時の人々にとって大事なことでありました。中世の旅人は、漂白人であり、時間の放浪者でありました。城壁で囲まれた都市と都市を渡り歩きながら、自らの時間世界を見出し、不安のそして近世の旅人でありました。
角度を変えて、日本では、5世紀以降、大和朝廷の力が強まり、日本は一つの国にまとまるようになりました。7~8世紀にかけて、大和では、大掛かりな土木工事があり、大きな道路が敷設されました。また、地方に向かって7本の大きな道(七道)が開かれましたが、これは暮らしの必要から生まれた道ではなく、地方の人々や産物を国の中心である大和に結びつけるための道でありました。七道とは、重要度によって大路・中路・小路に分けられ、都と大宰府を結ぶ山陽道は大路、東海道、東山道は中路、北陸道、山陰道、南海道、西海道は小路と呼ばれていました。農民たちは、重い税をかけられました。土地の産物や布などを納める調や庸という税は、品物を都まで運ぶのが決まりです。税を運ぶ人を運脚といい、村の農民が交代で選ばれました。税の品と往復の食料、雨具を背負い役人に連れられて都へ上がりました。遠い道程をあるき通す辛い旅でした。夜寝るときは野宿をし、荷物を雨でぬらさない容器を使い、また多くの人は荷物を軽くするために、帰りの食料を持たずに出かけて、帰路の道でいきだおれになる有様でした。また、兵士として都を守る衛士や、北九州を守る防人に命じられた地方の農民には、任地まで出向く苦しい旅が待っていました。『万葉集』には、家族との別れて旅立つ防人や別れを惜しむ妻の悲しみを詠んだ歌が数多く残されています。飛鳥時代から奈良時代にかけて遣唐使や遣隋使が活躍した期間ですが、当時の航海術では幾多の遭難が避けられませんでした。有名な唐僧:鑑真も日本へ渡ろうとして5回渡航に失敗し、やっと日本にたどり着いたのが最初の決意から12年目の66歳のときでありました。平安時代になると『熊野詣』が盛んになり紀伊半島をほぼ一周する険しい山道続きの苦しい長旅でありました。江戸時代の交通事情、参勤交代の実態、そん他の生の情報をいろいろ紹介しようと思いましたが、スペースの関係でここでペンを置こうと思います。以上で取りあえず終わります。

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