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April 2008

Thursday, 10 April 2008

我が芸術論:本論(Part-2)

「アニミズムの考察」
ここで、流浪の民である「ROMA」の信仰との関連で大自然を畏敬し崇めるアニミズム信仰心のある民族、つまりゲルマンの民・ケルトの民・東南アジアの民・そして日本の民にも見出せるのです。それらの民の信仰心を探ってみることは大変価値があると思いますので、この章で取り上げたいと思います。まず、ゲルマン人は、典型的な『自然崇拝の民』であり、たとえば、北欧のゲルマンのオーディンは、主神で戦争・死・知恵・詩・魔術の神(但し、南のゲルマンのウォーダンは、主神であり、風の神である)であり、トールは、力の神で雷・農民の神(南のゲルマンではドナール)、フレイは豊穣の神、バルドルは光の神、マーニは月の神、ソールは太陽の神などであり、地・水・日・風の四大元素に対し人間に害を与えないように祈ります(「エッダとサガ」P.25~P27から引用、谷口幸男書、新潮選書)。

そして、収穫が無事に済んだときには、大地の霊、大地母神・主神、風の神に供えをして唱えごとをします。彼らの歌をお聞きください。

さあ、風よ、これはお前の子供のための麦粉だ
   吹き荒れるのをやめよ
    雄風よ、雌風よ、ここにお前の食物を置く
      お前たちは、わしの言うことを聞いてくれ

*『ヨーロッパの祭りと伝承』P.22~P.23から引用、植田重雄著、講談社学術文庫

また、忘れてならないのは、森の精霊、樹木の精霊、水の精霊の信仰が存在したことです。

次に、ケルトの民を取り上げますと、彼らは、古代ヨーロッパで活躍した印欧語族の一派です。彼らは、紀元前3000年ごろ北方文化圏を形成し紀元前2000年ごろから移動をし始め、次第に全ヨーロッパへ浸透してゆきました。ただし、前1世紀ごろローマ帝国によって敗れてしまったのです。彼らの社会の基盤は、農耕や牧畜が主であり、自然の中に神々がいるという信仰の中で生活をしていました。例えば、全能の神(豊穣)、太陽の化身ルフ(技芸)、マトロナ(地母神)、ケルヌンノス(森)、マナーナーン(海)を信仰し、また輪廻信仰を持っていました。その点は、仏教との類似点を感じるのですが、根本的な相違点は、死とは怖いものではなく、またこの世に生まれ戻るという考えで、他方仏教では、この世は娑婆と呼ばれ苦難の世界であり、その輪廻のサイクルから解脱をしない限りその苦難の道が永遠に続くという現世悲観論を展開しています。結論として、Celts(ケルト)は、現世肯定型であり、仏教は現世否定型であると思われます。この相違の根源的な由来は、ケルトは、自然のリズムからの啓発であり、他方では仏教は現世の自然への関心が希薄、解脱を通じて涅槃の境地、つまりご来迎の世界への追求型の宗教観が存在しているように思われます。また、キリスト教では、直線型の宗教観であり、ある意味では「人間中心思想」であり、人間以外は人間界の下位におきます。しかしながら、ケルトの民は、キリスト教に征服され同化の道を余儀なくされましたが、彼ら本来の精神的な自然崇拝観を失うことはなかったのです。

彼らの詩篇にそれが窺えます:

A hedge of trees surrounds me.(木々の茂みが私を包む)
A blackbird's lay sings to m
e.(真っ黒な小鳥たちが、歌を私の耳元で唱        和します)
Above my lined booklet.(私が行を追って読んでいる書物のずっと上のほうで)
The trilling birds chant to me.(旋回している小鳥たちが、私に詠唱します)

In a grey mantle from the top of bushes.(茂みの頂から灰色のマントを羽織)
The cuckoo sings.(カッコウが詠唱します)
Verily-may the lord shield me.(まことに願わくば、主が私の盾になってくださることを)
Well do I write under the greewood.(緑林の下でその願いの句が銘記出来ますように)
*日本語訳は、私の試訳です。
*The poems above are quoted from 「The Celts」(by Nora Chadwick published Pelican Original,P219) 
以上ゲルマンとケルトのものを見てきましたが、現在でも一神教のキリスト教の影響が色濃く残っているヨーロッパの国々のお祭り行事に溶け込んでゲルマンやケルトの文化が息づいています。
次に東南アジアの民の宗教観を見たいと思います。
根本宗教は、彼らにとってはアニミズム信仰であります。本来アニミズムは、人間の霊魂が人間から独立していろいろなところへ浮遊するものであり、また人間以外の動植物やその他の自然物からの霊魂が精霊といわれています。この両方のものを含めた霊的存在への信仰が「アニミズム」と定義されています。例えば、タイ族やラオ族の「ピー」、クメール族の「カモーイ」、ビルマ族やカチン族(ビルマ北部山地の種族)の「ナット」、マレー族の「ハントゥー」などと呼ばれる生霊・悪霊・死霊・祖霊・魔女・妖怪などの総称であります。←『東南アジアの理論と心性』P.48~P.49から引用。以上は、東南アジアものですが、インド・スリランカには、アニミズムの一形態である『樹木崇拝』があるそうです。日本ででも霊的存在が動植物・無生物に宿っている信仰があります。例えば、動物では狐が「お狐さん」として稲荷神社で神として祭られ、また無生物である『石』が祭られている神社もあります。また、大きな木は、神が宿っていると信じられて『神木』として崇拝されています。また、私の個人的に興味のある神社があります。その神社は、以前訪れたところであり、その神社の名前は「県(あがた)神社」と呼ばれています。その本堂には、なんと「人間の男性のシンボル」が祭られていました。子孫繁栄の神社なのです。
総括として、以下に世界的な宗教の世界観について一瞥しますと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道等を概観しますと、「神・人間・大自然」の構成が、石田英一郎の『文化人類学ノート』によりますと、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は唯一絶対神を信仰し、男性であり父である神が存在し、ヒンズー教は、大地の母子であり、女性の神格として顕在します。日本の民族宗教も後者であるヒンズー教の範疇に入るといわれています。岸本英夫の「世界の宗教」によれば、世界観の三類型を構築しているといわれています。つまり(1)宇宙の中に神と人間が共存(日本の民族宗教の場合)(2)神が人間を含めた宇宙の外在の存在(キリスト教、イスラム教の場合)(3)宇宙の中に人間のみが存在して、神の存在否定(仏教の場合)です。R=レッドフィールドによると、人間と人間に対面する存在としてのALTERなもの、つまり自然と神が存在するものとして区別しています。(1)神が上位で自然や人間が下位に位置して横並び(2)人間が上位で自然・神が下位で横並び(3)自然が上位で神・人間が下位に位置し横並び。つまり、(1)については、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの諸宗教がそれに該当し(2)については、としか・産業化の環境の中で『個人の覚醒』、自己表現の発露による『人間中の世界観』の誕生(3)については、ケルト人やゲルマン人の宗教観、アジアの民族宗教つまり「アニミズム」がそれに該当するということです。
ここで、先ほどの引用した「自己表現の顕在化」の言葉に関して、私の考え方を若干補足しますと、絵画にしろ音楽にしろ演劇にしろ、すべては自分から発した「自己表現の顕在化」であり『自己の感情の表出』であります。その限りでは、芸術イコール人為的なものという狭い範疇に陥ってしまい本来の芸術の無限性を否定してしまうのです。そのような偏った理解は、本当の芸術を無視し、まさに残念ということしか形容するしかありません。

私は、大きな声で言いたいのです。
雲海の曙の神々しさ,大海の白波の勇敢さ、山々の林間に差し込む光の幻影、山々の頂を照らし出す雲の間からの一筋の光の透徹さ、山間の小鳥たちの優しいさえずり、太陽が地平線の彼方へ沈んでゆくときの寂寞感、夕と夜の間の大空の星々の宝石のような輝き
自然の作り上げた「美」に目を向けてください。きっと「芸術の究極美」を我々人間に教えてくれることでしょう。

(自作のつぶやき)
夜の展開の幕に吊るされている煌めく星を見上げてください
あなたの心が悲しいとき、きっと温かい手のひらであなたを包んでくれることでしょう
あなたの心が寂しいとき、きっとあなたのそばに来て優しい言葉をかけてくれることでしょう
あなたの心が辛いとき、きっと優しき言葉であなたを慰めてくれることでしょう
そして、あなたの心が楽しいとき、きっとあなたと一緒に飛び回ってくれることでしょう


日本風景画の巨匠である東山魁夷の次の言葉にすべてが語られています。

『私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。自然は、心の鏡。』

話が『芸術の無限性』へ話が行ってしまいましたので、この辺で本来の主題であります『宗教と芸術』に話を戻しますと、ポエムの世界では、偉大な詩人でありますリルケの詩集は、宗教的な要素がかなり踏襲されていますが、同時に芸術作品としての価値も多くの人々に認められています。
この辺でリルケの詩集の一片をご紹介したいと思います。

Da neigt sich die Stunde

Da neigt sich die Stunde und ruhrt mich an mit neigt sich die Stunde und ruhrt mich an mit klarem,
Metallenem Schlag:mir
Zittern die sinne. Ich Fuhle:ich kann---
Und ich fasse den plastischen tag
(訳)
時は、終わろうとしている
時は、終わろうとしている、それは私に優しく触れる、澄んだ響きのよい音と共鳴しながら:その雰囲気の感覚に私の心は小刻みに震える。私はできるーーーそして、私は、形が縦横無尽になる朝を迎える

Nichts war noch vollendet, eh ich es
Erschaut, ein jades warden stand still.
Meine blicke sind reif, und wie eine
Braut kommt jedem das ding, das er will.
(訳)
何も仕上げられていませんでした、私が心の目で見るまでは、それぞれの形になるものが静寂の中に佇んでいました。私の洞察力は、完璧であります、そして新婦のように、彼が望むようなものが各人に来ます。

Nichts ist mir zu klein und ich lieb es
Trotzdem und mal es auf Goldgrund und gross, und halte es hoch, und ich weiss
Nicht wenn lost es die Seele los---
(訳)
私にとって小さすぎるものは何もない、そしてそれにもかかわらずそれらを愛しています、いつか金の地面にそれらがあり、そして大きくなり、それら
が高く伸び、そして誰によってその心が剥ぎ取られるのかを私は知らない。
(リルケの詩集より)*翻訳は、私の試訳です。
注釈として上記のドイツ語文の中のいくつかの単語には、ウムラウトが必要な単語ですが、故意的に付加していません。なぜならば、このブログには英語以外の外国語に対応していません。ご了承ください。)

ここでは、難解な哲学的セオリーを述べようとは毛頭ありません。唯私が指摘したいのは、『芸術とは、宇宙を超越した何かの存在と同一的なもの』と一致するように理解できる領域ではなく、感覚として感じるのです。もともとそれを理解することは不可能であり、また不合理であります。芸術とは頭で理解するのではなくcordis(心)とmentis(精神)によって受け取るべきであり、心が感じれば必ず精神が覚醒して人間の肉体へ連鎖しカラダ全体で感じ取ることができるのです。そして、人間の外輪である大気と協和するのです。『何かの存在』とは、神的な存在であるかもしれません。

ここで少し文脈からは、逸脱してしまうのですが、気になる文章を発見したのでここで原文を紹介したいと思います。なにか『芸術の核心』をついているように思われますのでどうしても掲載したいのです。

An artist must be a master or nothing...In learning,on the other hand, a man can only be a master in one particular field, namely as a specialist,and in some field he should be a specialist. But if he is not to forfeit his capacity for taking general views or even his respect for general views, he should be an amateur at as many points as possible...Otherwise he will remain ignorant in any field outside his own speciality and perhaps, as a man, a barbarian. (Quotation from" The letters of Jacob Burckhardt")

上記の文章は、英文でありますのであえて訳しませんが、私がこの文章から感じたことは、芸術家は、支配者であり、また何者でもなく大気のような存在である、専門家になってはいけないと偉大なブルックハルトは重要な指摘をしています。私は、まったく同感です。芸術家は、本来地位や名誉、金銭求めるのではなく、もっと崇高な存在であるべきなのです。現実世界では、彼らは一般の人より貧しく、目立たない存在であるのが「本来の姿」だと思われてならないのです。以前別なところで述べましたようにそのような環境の中から本物の芸術が誕生する公式が存在すると確信するのです。あまりこのテーマにどどまる時間がありませんので本題に戻りたいと思います。

その存在を想像して生成したのは『神のなせる技』を感じるのです。結論的にいいますと、芸術は、すなわち神の存在そのものなのです。一番身近な理解として、現在ではキリスト教・仏教・イスラム教・ヒンズー教その他いろいろの宗教が存在しますが、私が表現したいのは、それらの諸宗教を超越した『宇宙の究極的存在』なのです。人間は、その存在に接近するために人間のEmotionが,諸宗教のいろいろな効果音を利用するのです。人間は、それらによってまさに恍惚状態に導かれるのです。具体的には、仏教の場合、宗派によって多少の相違がありますが、一般的に般若心経や法華経などの読経があり、それを唱えるとき太鼓やその他の音を打ち鳴らし、それらの共鳴があり、神道では、祝詞のときに太鼓や鈴の音のハーモニーがあります。キリスト教の2大宗派(カトリックとプロテスタント)のなかでカトリックは、教会の基本文章である『三要文(信条・主の祈り・十戒)』を唱え、オルガンに合わせてコーラス隊が『神を讃える歌』を合唱します。イスラム教では、モスクから町中に響き渡る『アザーン』の声の神秘的な雰囲気があります。実際、私がトルコやエジプトを訪れたとき、その幻想的な響きによってムスリムの世界と自分との不思議な一体感を感じました。また、それら自分たちの宗教の神への存在を肌で感じる効果として、その『空間効果』も大きく寄与しているのです。事例として、仏教では、『仏』の存在感を感じる境内の山門・参道・仏舎利等・本堂・奥の院等の空間位置、またキリスト教の教会の内部の暗闇・ステンドグラス・キャンドルの光・中心に位置する祭壇などの配置、それらの空間配置により神の存在感を人間は肌で感じるとこができるのです。以上の「楽器の音色」や「人間の合唱」また(
続く)

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