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Sunday, 09 November 2008

我が演劇論:Prelude

Die Einleitung                                        

文化は、いろいろな形でそれぞれの時代を映す鏡である。『演ずる』という手段を持って現代という時代のフィルターを通じていろいろな作品を舞台や各種映像で表現することをいつも心がけています。例えば、過去の作品でも現在の呼吸を吹き込むことによって過去の作品としてとどまるのではなく、まったく新しい姿として生まれ変わるのです。そのようなプロセスを通じて新たな文化創造につながるのです。文化というものは、どんな時代でも、『真実の姿』を求め、『常に変貌』を要求するものなのです。別な見方をすれば、その時々の社会が「文化」を産み落としたのであるが、逆説的な言い方では、『文化』がその社会を構築し、歴史を変えたともいえると思われます。そこに、『文化』の測り知れないパワーを痛感するのです。また、真の演劇の仕事は、自らの持つ哲学的思想的文学的の諸要素の性向を新しい演技性に置き換える文化運動といえると思われます。それぞれの作品を鑑賞することによって観客を変貌させることこそ演劇の究極の目的であり、またそれゆえに変えうるだけの演劇という世界が力強いパワーを持ち続けなければならないと思うのです。ところで、演劇のいう文化の一形態において、もう少し掘り下げて考えると、それの特殊性は、時間的空間的に物語を運ぶことであり、登場人物に自分を成り代わらせることが『演技者の仕事』であると確信します。                       

(English Version)                                   Culture is the mirror to project each generation in the varierty of forms. I'll always make an effort to express myself in the variety of the works of both the drama stages and TV,or Cinemas by performance through THE PRESENT FILTER.. That is, the new works could be transformed by the present breath ,not the old works. A new culture can be created through the above-mentioned process. The culture is seeking for "truth", and demanding "forever-transformation". Now,the real drama contribution is the culture movement to express oneself in the new drama scenes from their own philosophical, idiological and literary inclination.                 

Der Hauptteil                                                       本論では、『俳優とは何ぞや?』の問題から考えたいと思います。。本論では千田是也の『俳優入門』の本を中心に論を進めます。先達者曰く、『俳優の仕事は、台本には、音色・高低・強弱・速度・休止などーについての指定はほとんどない。せりふやト書から、自分の役の性格、他の役との関係、その内的・外的行動の「途切れぬ線」、脚本全体の意図(「超課題」)、その中での自分の位置や役割を読み取り、それを自分の体験や知識や想像力でおぎなって、生き生きとした役のイメージを作り上げ、形にあらわすことです。』と名言を残しています。この論では俳優の技術な面である音色・高低などの側面より、より重要でより深遠であり、もっとも困難な『体験と想像力について』言及したいと思います。演出家や監督がよく『役者はいろいろな体験をしなければ、その役柄に迫れない』とよく言われるが、役者がすべての時間的・空間的次元を網羅してあらゆる職業の経験を要求されるならば、誰も役者の資格がないと謂わなければならない。人間の寿命は平均して70~80歳ぐらいであり、また時間的・空間的に限られた現在という世界で生きています。自分が『現在の次元』で体験したもので演技するしかないのです。現在というフィルターを通じて自分なりの演技を遂行すればよいと思われます。但し、限られた『体験』をただ演技に投入すればそれでよいという単純なものではない。日本の代表的な演出家である水品春樹氏が謂っているように『それを生かし作品の創造性を助けるのが想像である』と。氏によると、体験は、ただ自分の実体験だけではなく、読書や見聞の経験も含まれています。氏は想像について言葉を続けます『芸術表現に大切な想像やイメージを作り出すその源は、表現者の体験・心的経験による知識上感覚上の記憶力であり、この働きが強いほどそれによりイメージがより浮かび(正確な演技想像への足がかり)が得られる、また体験・知識を蓄積することによって(感受性)が磨かれる』と。私は、純粋無垢な子供たちからよく教えられます。つまり、子供たちの遊戯の中に何か演技の原点の一端を感じるのです。たとえば、そこに大きな石があれば、それは子供たちの魔法によって台所の食卓テーブルに変身し、汚く薄暗い路地は、魔物が住みつく洞穴に、雑草は、魔法の絨毯に。つまり舞台の背景や道具が、子供たちの想像のイメージによって創り出され、その舞台で自分らの役割が決まり演技が展開されるのです。確かにその演技は、稚拙で、演技にとって大切な要素は欠落しているが、つまり鑑賞する人を意識した演技ではない。子供たちの小さな経験(テレビの中の登場人物の記憶)が想像の世界で開花した点は、大いに学ぶ点があろうと思われます。但し、私が日頃危惧していることは、多くの役者は、その登場人物に少しでもなりきろうと、先ほどから論述している自分の経験・体験に加えてその人物に関する資料・書籍等を勉強しますが、であれば、その役者さんの存在は、言い換えれば『個性』はどこにあるのでしょうか?個性の喪失。役者は、演出家や監督のマリオネット(傀儡人形)ではありません、あくまでも『新たな創造性を創り上げる芸術家』であります。それぞれの役者の体験・価値観・環境・物事に対する感受性・自分が存在している現在の時点などを通じてその人物になりきるところに個性が生かされ、またその登場人物の画一的な見方とは違ったものができその人物に新たな生命が吹き込まれ観客に感動を呼び起こすのです。そこに演技の面白さ,変幻自在な姿を発見するのです。次に『途切れぬ線』とは何か?                     

Die Fortsetzung des Hauptteiles                            『途切れぬ線』とは、スタニスラフスキーが『あらゆる芸術において、一本の途切れぬ線がなければならないということがわかるだろうか?線が、一つの全体となるときに、創造活動が始まる。諸君の内的な力をみんな使って、一本の途切れぬ線を作り出しなさい。』といっているように(『俳優修業』より)、俳優は、舞台では、、ある役が俳優に与えられた場合、その間は『内的な一本の線』(スタニスラフスキーの言葉から引用)を持ち続けなければならない。素人の俳優と本物の俳優との違いは、その点で判断できます。別に俳優に限ったことではなく芸術といわれるすべての分野でもそのことが云えると思われます。例えば、音楽演奏家にしても曲目全体の一本の線を持たなければ、演奏する上での創造性やその演奏者の独創性が内部から構築されないし、また鑑賞する人々に感動を与えることは決してありません。つまり、芸術の一形態とはならないのです。『もしも、内部の線が途切れると、演ずる人は、何の欲望も情緒も持たなくなるのです。その線が中断すれば、生活もとまる。』(スタニフラフスキーの言葉より)。少し角度を変えて、自分の経験から少し述べさせていただくならば、よく将来俳優になりたい希望の生徒たちを指導しているとき感じるのは、短い寸劇のなかで無対象動作で自分の部屋の高い棚からダンボ-ルを下ろす練習をさせると最後まで一本の線が持続しなく手から無意識に離してしまう。このわずかな時間でさえも持続することができない。そのような状況では、決して創造的なものは生まれない。ここで、一つのテーマが私の心に浮かびます。つまり、『観客(客体)に感動を与える』とはどういうことでしょうか?どんなに俳優が躍起になって人に感動を呼び起こそうと頑張ってもそれ演技を見るサイドに内的な推測性、期待感や過去の経験がなければ、何にも起こらないのです。よく浅薄な俳優は、自分の置かれた状況演技だけを切磋琢磨するが、それは片手落ち以外の何者でもありません。その相乗効果を忘れてはならないのです。つまり『総合コミュミケーション』の実現に神経を砕くべきです。さもないと、演技者の一人舞台になり、悪い場合は、自己陶酔に陥ってしまうのです。特に、俳優は、自己陶酔型が多く見受けられますので、くれぐれも慎重にならなければいけないのです。わかりやすいケースとして、子供たちの前で、『ハムレット』を一生懸命俳優が演じた場合、期待すべき効果が得られるでしょうか?この点について、千田是也氏は『俳優の芸術は決して一人ではできない。俳優は、ある場面での人と人、人と物、人とその置かれた場面のと関係を読み分ける(場面の感覚)を身につけなければならない。』と説いています。幸いなことに、人間は、長い期間、集団生活をすることによって、『俳優の身振り・仕草から』ある程度の共通の理解力・先行的期待感を先天的に持っていますので、ある線の感動を獲得するでしょう。しかしながら、俳優は、それに期待することなく、『全体の蜘蛛の糸のネット』をいつも内的に張り巡らせる努力を惜しんではならないのです。つまり、それらの期待できる仕草やみぶりにしろ、いろいろの役柄では、そんなにも単純なものではなくもっと複雑なものであり、演技の最大限の琢磨を要求されるのです。俳優と観客の『交流』、スタニスラフスキーの言葉を借りると『交通』という言葉に凝縮されるのではないかと思われます。次に、千田是也氏の『演技の三つの型」について考察してみたいと思います。先達者曰く、俳優と役との関係から、演技には、『代理、形成、表示』という三つの型があるそうです。               

Die Fortsetzung                                       これら三つのパターンが生まれるには、特別な歴史的、また社会的な理由があるとのこと。最初に『代理』について取り上げると、宗教的な祭りで演じらえる人物たちでそこで演じられるのは、伝統的・伝説的なな人物たちである。それゆえに、空間的・時間的に限定さているので、それに参加している観覧者たちは、演じる人物がまったくの素人芸であっても、『あの人物を演じているのだなあ』と想像できるのです。例えば、ヨーロッパのドイツの『ニッコロ行列』ーー。その原型を思い浮かべて同一化できるのである。この場合、長い年月受けつがれたものであり、服装や動作に神経を使わなければならない。ただ、双方とも『魔法の輪』にいるので演技者と観客に間には、同化はあっても分化は見られないのです。千田先生は、この次元では『芸術』とはいわないと言っています。次に、『形成』に話を進めると役を作り上げるための全身全霊を総動員して物まね・しぐさ・身振り・せりふで『イリュージョン(幻影)』を喚起する必要があるといっています。この場合、『演じて見せる』という役者の働きだけは、役の後ろに隠さなければならない。この時点で、俳優術は芸術の世界への仲間入りできたといっています。最後に『表示』については、役者と観客は、別の人間である。役になりいろうとは考えずただ『役を表示』するのみである。後は、観客にその演技の批判や選択に任せるものである。以上千田先生の演技の三つの型を要点だけを紹介しましたが、この中で『形成』について一言申し上げたいのは、『形成は芸術の世界へ仲間入りできた』といっていますが、『代理」も芸術の世界に入ると思われます。なぜならば、先生は、神とか超人間とかの演ずることは、『代理』であるからその世界には入らないといっていますが、奈良時代に中国からはいってきた散楽が、日本化して平安時代に猿楽となり鎌倉時代を通じて「悲劇的」な歌舞劇である「能」は、約600年の歴史を持っていますが、それは、まさに芸術の極致であり、芸術の世界に入ると思われます。ご存知のように、主人公のほとんどは「幽霊」であり、人間の本質や情念を演じ、「幽玄」を追求したすばらしい芸術であります。観阿弥の子世阿弥は、「演技」について彼の著書である「風姿花伝」で「役に扮する演技には、あえて似せようとはしない段階があるはずである。役に扮しきって、本当にそのものに成り入ってしまへば、そのときの心には、もはや似せようといふ思ひがあるはずはない。道をきはめた名優が心がけるのは、(省略)何気なく舞って出たといふ風情を見せることである。」と述べています。この文章で「演技の、否、俳優の役に対する真髄」を明確化しています。但し、「役に扮しきって」とは、それ相応の努力をしなければならないと謂っていますが、私が、世阿弥の考え方で矛盾というか理解に苦しむのは、「花伝書」では、「あえてなにもせぬところが面白い」と述べ、また言葉を続けています。「舞と歌の二芸やしぐさ・役柄の演技は、身体で演じる技芸である。「何もせぬところ」とは、技芸の間隙であり、そこが面白いのである。」と。私が感じるのは、話が私の専門分野のひとつである「ギター音楽」との関連で少し述べますと、ギター音楽の中でも特に、フラメンコ音楽は、演奏の間隙を大変大切にしています。その間隙効果によって一層すばらしい効果が出るのです。ある意味で、「沈黙」効果とも関係があるように思われます。マクス=ピカートは、演劇におけるドイツ語でのSchweigenについて「言葉は沈黙から、沈黙の充溢から生じる」と。    

Die Fortsetzung                                       また、ベルギーの劇作家、詩人、思想家であったモーリス=メーテルリンク によると、「もしも私がほんとうにその人を愛しているなら、私が言った言葉のあとの沈黙が、私の言葉にどれだけ深い根があるかをその人に解らせるだろう。そしてその人の心に、それもまた無言である確信を生むだろう」と。私は、せりふだけが観客にわかってもらえればそれで事が足りたと思うことは、あまりに軽薄で、本来の演技の真髄は、行間にある「なに」かをつたえられるとき「芸術の創造性の何ものか」を感じるのです。アーティストを志すならば、その点を決して忘れてはならないのです。気持ちを言葉で相手に伝える演劇は、どんなジャンルでも無意味なのです。本来人間は、話す自分と聞く相手の間には「呼吸のリズム」のような何かが存在します。それは、言葉では表現できないことですが。よく、日常でも言われる言葉に、「あいつよくしゃべるなあ、なにをいっているかわからないよ」という文句がよく聞かれますが、それはまさに、双方のリズムが合わないのです。言葉の連射は、ただ聞く相手に理解を難しくさせるだけではなく、嫌悪感も相手に植えつける結果になってしまうのです。また、「愛のささやき」には、愛の告白とともに間隙も必要なのです。とどのつまりは、「人間での感情表現に間隙の要素が必要不可欠です。但し、ここで忘れてはならないことは、「間隙」ととも「しぐさ」が伴うとより相手にわからせることができます。つまり、「非言語の世界」の助けを借りることです。「しぐさ」について、千田先生は、俳優の芸術は決して一人ではできない、他の人々(その他の俳優たち・作家・演出家)と一体になって成り立ち、また見物人たちも俳優の身振り・言葉の形からその意味を読み取り感じると同時にいろいろの関係(人と人、人と物、人とそのおかれた場面との関係)を読み分ける感じ取る感覚を身につけていなければならないといっています。ところで、私はここで述べたいのは、日本の演劇が国際的になりにくい根拠の存在を認識するのです。日本という特殊な国では、ほとんどが同じ種族の単一民族ですので、見物人もある程度の役者の動作の「間隙(沈黙)・しぐさ」からある程度、そのときそのときの役者の感情と同化しやすく理解が容易であると思うのです。喜怒哀楽の同一性が双方に認められるのです。ところが、外国でそのままの場面を演じれば、大いに支障が生じて、最悪の場合、嫌悪感を感じてしまうことになりかねないかと懸念します。「非言語の世界の研究」が日本の演劇界ではほとんどされていないのが現状です。その分野の専門家であるバードウィステルの研究によれば、対人コミュニケーションで言葉が占める割合は、30%ぐらいで、残りは、非言語の割合で70%ぐらいだそうです。いかに非言語の世界が重要かがわかります。この世界の研究を通じて「誤解」を乗り越えなければ、日本の「演劇」は、年に何回かは、「日本の伝統の歌舞伎等」は海外公演されていますが、「日本で作られた一般の演劇」が、海外で上演され人気を博しているとついぞ聞いたことがありません。逆に「海外の演劇作品」を日本人向けに再構築して公演することはよくありますが。本当の意味で日本の一般的な演劇」が国際舞台で上演されるには、はるか未来にならないと実現しないように思われます。1578年、日本での布教方針を考えるにあたり、イエズス会東インド巡察師アレシャンドロ=ヴァリニャーノは、「日本人は喜怒哀楽を表情に出さないので、いったい何を考えているのか自分たちヨーロッパ人にはさっぱりわからない」と述べています。                         

Die Fortsetzung                                       役者の演技は、外見の演技が台本に則って話す・仕草ができればそれでよいというものではありません。外見の動きは、言うまでもなく内面が成就されたとき始めて完成されるものなのです。ある文献に次のようなことが記載されていましたのでご紹介しようと思います。中国で頂点に立つ武術家である王(1886~1963)氏が曰く「体や手の動きを俊敏にするには鍛錬に際して動かないのがもっともよい。その動きは動いているようで動いておらず、動いていないようで動いている。静止しているようでも静止していない。動きの形跡があってはならない。精神的意味は深く、形の上だけの動きはいけない。形の上の動きは形のみのものであり、力が分散してしまうからだ」。私自身若干武術の心得がありますが、縦横無尽に動き回るには、最初は常に『不動の姿勢』を作ることです。そうすることによって、いつでも打ち込めると同時に対する者に自分のすきを隠し、また見えない威圧というか気迫というかそういうもので相手の気持ちを動揺させるのです。剣術の達人が、よく対決の場面で『不動の姿勢』をしている場面を見かけたことがあると思いますが、まさに双方が達人であれば、何時間もお互いに微動だにしない。表面では、何も動きが見えないが、双方の心の中では内面の活動自在があるのです。宮本武蔵も『五輪書の水の巻の兵法心持のことの章』で次のようなことを述べています。『兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替わる事なかれ。常にも、兵法の時にも、すこしもかはらずして、心を広く直(すぐ)にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。(中略)うえの心(外見)はよはくとも、そこの心をつよく、(中略)知恵をとぎ、天下の利非をわきまへ、物毎(ものごと)の善悪をしり、よろずの芸能、其道々をわたり、(中略)兵法の知恵となる心也。』。以上二人の剣豪の名言から、心が外見をあやつり、縦横無尽の行動(演技)ができ、対者(観客)に迫力というか気迫というもの(感動)を与えることができるのです。ここで、武蔵は、『よろずの芸能』と『五輪書』で言及していますが、武道と芸道との相関図を見出すのですーーー。次に、世阿弥の『幽玄』について私の考えを述べようと思います。まず、世阿弥の演劇論は、根源的な人間探求であります。世阿弥にとって日常生活がまさに演劇世界そのもののようであり、『世界が舞台であり、男女はすべて役者』でありました。彼によれば、能の役の類型は、三つに大別されます。老人、武士、女性であり、最初の老人は、『弱さ』の存在であり、次の武士は『強さ』の象徴であり、最後の女性は、『中庸』の存在を顕しているように思われます。弱者と強者だけでは、この世の存在は難しく、その両者の間の融合の存在がどうしても必要なのです。世阿弥は、この女性の役を最高の理想美の存在としています。ただある文献で指摘しているように、ある意味でそれぞれの役柄に逆説的な要素を要求しています。つまり、老人の役柄には、反対の華やかさを、武人には反対の優しさを要求し、『巌に花の咲くが如き』、『古木に花の咲くが如き』芸こそが、彼の理想とするところであると。何ゆえに、『中庸の存在』が最高美であるかといえば、『妙』や『安心』そのものあるからです。ここではじめて『幽玄』との関連が生まれるのです。世阿弥の芸術論の『花鏡』に、『幽玄』について次のように述べています。 役柄に型にはまった演技ばかりをして、それが最高の位であると思い、姿を忘れているから幽玄の域に入らないのだ。幽玄の域に入らなければ理想的境地とはならない。理想的境地に至らなければ名の通った上手にはならない。だから名人はそういないのだ。(中略)だからといって、幽玄になろうとばかり思うならば、生涯、幽玄には至らないであろうーーー。言い換えれば、外見だけ役柄をいくら飾ったとしても、内面の鍛錬がなければ『最高美である幽玄の境地に至らないであろう』と私は、解釈します。また、世阿弥は、含蓄のある言葉を残しています:『幽玄之入堺事』。また、世阿弥は、『心理の動きの自己目的化・完結化』を『花鏡』で述べていますが、いまだ凡人の私は、その意味が解りません。『花鏡』で『無心の位にて、我心をわれにも隠す安心にて』。つまり、観客のみではなく自分自身から隠すこと。自分なりに勝手に解釈すると、ずばり『無心の心』の大切さを婉曲的に謂っているように思われるのです。                                         

Die Fortsetzung                                        以上『無心』の状態の重要性を強調していますが、この文面で、私の目に留まるのは『安心』という語句なのです。私が思うには、この語句は日常使用している意味ではなく、演技者の行動(役)の究極的な境地であり、別の言葉に置き換えると『安堵』とも言えます。観客が鑑賞する心に『安心感』を与える演技であると同時に演技者自身役柄の完成された姿であり、双方の『安心作用』は、まるで電流の陰極・陽極のようなものであります。多分ある人は,『無心』がすなわち『安心』であるというかもしれませんが。??私は、もっと広義の見地からですと、今の季節で言わせていただきますと(秋に入ろうとしている10月の初旬)、自然の移り変わりであり、季節の中で春の時期と同じように一番自然の不思議さや神秘さや偉大さを痛感するのです。そこの懐の中に『自然の姿』への傍観者としての私に何か安堵感を与えてくれるのです。世阿弥は、すべての演技者に其のことを伝えようとしているように思われるのです。否、すべての芸術を追求するものに諭しているのです。(私は、いつも、演技の仕事が終えた後、毎回反省の繰り返しであり、世阿弥が理想としている境地の足元にも及ばなく自己嫌悪に陥るのですが)。人はよく、自然の懐に入ると『落着くとか安心感』を感じるとか言うが、何か自然の姿と人間との大気や地面を介しての『一体感』から生まれるともいえるのでないかと最近感じています。自然の呼吸をじかに感じる瞬間が何か安堵感に包まれるを感じを抱くように思われます。別の言葉を借りれば、万物と自然との融合です。仏教の一つである『禅宗』の座禅の境地に『無心になれ』というものがあるが、それは、すべての煩悩といわれているものを断つ事によって見出されるといわれているが、私自身時々禅を組むのであるが到底そのような境地にははるかに到達することはできないが時たま無心の心が感じることがあります。其の瞬間は、まさに静寂・時間・空間を超えた何か『真空』の雰囲気を感じるのです。其の境地はまさに不動の心と言えるかも知れませんが、それと世阿弥が言わんとしている『無心の境地』とある意味で関連性があるように思われます。(後日へ続く)

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