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俳優:岩崎秀夫の素顔

  • 著名な政治アナリストである伊藤惇夫氏と私。
    私の好きなスケッチです。

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February 2013

Tuesday, 19 February 2013

彷徨える河原乞食のプロフィール

BIg News!

現在(2021年9月)、ストリートピアニストとして活動中です。!!!

現在,私のブログの累積アクセス数(携帯電話からのものを含める)が25000になりました。
私に関心をいただいた方々へ、このページを借りて御礼申し上げます。
今後ともよろしくお願い致します。(2013年11月24日現在)

また、「芸術ページ」では、私の「芸術論」が世界的な著名な方々の著作の中に列挙されることになりました。

また、サイト「日本の論文」の中で私の論文が評価され、掲載されました。

(俳優、ナレーター、演技指導者、ギター演奏家、ギター指導者、ポリグロット(数ヶ国語使用者)、英語教育者、ヨーロッパ中世研究家、トラベルコンサルタント、イワサキミュージック主宰者)

生年月日:1955年3月24日(66才)
血液型:O型
星座:おひつじ座

身長:180cm 体重:83kg バスト:110cm
ウエスト:96cm 頭周り:64cm 首周り:43cm
腕丈:84cm ヒップ:130cm 股下:67cm

(学歴)
1976年4月~1980年3月獨協大学外国語学部比較文化論専攻 卒業

(海外渡航歴)世界40カ国以上(主にヨーロッパ)

(芸歴)
 1991~1996年 劇団「悪役商会」所属
                 (八名信夫主宰)
 1996~1999年 「MCM.」所属 
                  (我修院 達也所属)
 1999年~2001年 「バーンズ」所属
             (渡辺篤夫、岡田奈々所属)
 2001年~2006年 「M-Office」所属
                (オダギリジョー輩出)
 2007年「アイ・オフィス」(芸能プロダクション)開設、所属 

 

(演技)
アイ・オフィス主催「将来のスターを目指す:俳優・女優塾」開設
最大手総合芸能学園「テアトル・アカデミー」の「芝居」講師として現在活躍
芸能プロダクション「GURRE」の演技講師
   
(ギター)
東京ユニバーサル・アーティスト学院
イワサキ・ミュージックスクール
 
ギター教育歴:
プロフィール:15歳からクラシックギターをオーケストラのギター奏者豊泉秀樹に師事、のちにフラメンコギターをフラメンコ界の巨匠アントニオ=ガディスの友であり、ギター奏者のぺぺ斎京に師事。他方、高校時代にウクレレのソロ演奏法を同じ豊泉秀樹に学び、トロンボーンを吹奏楽に所属して学び,また大学時代は、「クラシックギター部」に所属。
後にアントニオ=古賀(古賀政男の愛弟子)のギター・ピアノ教室の講師歴任。
現在、六本木にあるユニバーサル・アーティスト学院、岩崎ギタースクールにてギター指導

〈講演活動〉
*「講演.COM-株式会社イー総研」の講演講師部門
*株式会社「ペルソン」
*株式会社「オーディク」のアーティスト
 上記3社に登録

<15の講演テーマ>
(1)人生はすばらしい、無限の可能性がある
*自分の経験談

(2)演劇を通じて学んだこと
*人間形成に役立つ演劇について

(3)音楽を通じて学んだこと
*人間の感情面・情緒面について

(4)英語教育について一言
*外国語崇拝による母国語軽視の危険性

(5)ヨーロッパ中世の世界とは?
*中世からわれわれは何を学ぶべきか?

(6)40カ国以上の渡航経験から学んだことは?
*多面的文化について比較文化の見地からの考察

(7)まもなく退職、第二の人生をいかに充実に過ごすか?
*自分の日頃感じていること、また海外の諸ケースを紹介

(8)芸は身を助けるといわれています、
貴方もギター演奏の芸を身につけませんか?
*ギターのすばらしさを知ってもらいたい

(9)120分で簡単なギター演奏ができます
*短時間でギターの演奏法を伝授します

(10)第二の人生で、貴方も俳優業に挑戦してみませんか?
*俳優業ほど人生で挑戦するだけの価値があります

(11)私のボランティア活動から考えることは?
*本当のボランティア活動について提言

(12)これからの時代は、英語だけではダメ、ポリグロット(数ヶ国語に通じた人)になりませんか?その方法を伝授します
*言語の面白さ、神秘な言語世界へご案内します

(13)孤独について
*多くの歴史上の偉人の孤独の効用について考察し、それから孤独の価値について提唱

(14)ピアノを弾いた経験がない中高年の皆さん!ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」第一楽章に挑戦してみませんか?きっと新しい世界が見えてきますよ。

(15)『黒死病』の歴史の考察
*中世ヨーロッパを蹂躙した「黒死病」が現代社会に警告していることは何か

(教鞭歴)
 専門分野:社会科学系(西洋中世史、比較文化論)
 日本大学、高崎商科大学、東洋学園大学、育英短期大学等歴任

(所属)
日本ホスピタリティ教育学会(正会員)
習志野商工会議所(正会員)
異文化コミュニケーション学会(正会員)

(現職歴)
   高崎商科大学 兼任教員(The relation between Culture & travel)
      Gregg Language institute(Tourism,Manner education for Foreign students) 
      TES Language school(Hospitality,Basic English)
   大手企業の英語講師(TOEIC担当)  

(就職指導)
各大学にて「就職対策英語」、「就職対策業界研究=ツアーコンダクター」講師

(試験監督官)
各種試験の主任監督官として活躍

(文筆活動)
ホームページ・ブログ・書籍執筆
テーマ:芸術論、演技論、環境破壊、教会建築

(使用可能外国語)
 外国語(英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語)

諸外国学習の経歴:

(a)英語
講師プロフィール:獨協大学外国語学部卒業、成田空港の「ホリディーイン成田ホテル」の全従業員へ英語指導。「日本道路公団」その他の海外視察団の通訳者。「神田外語学院」・「東京商科学院専門学校」・「群馬育英短期大学」・「東洋女子短期大学」・「日本大学国際関係学部」等の教育機関にて英語講師として指導。また「企業向け英語講師」として活躍。

(b)フランス語
講師プロフィール:「日仏学院」、「アテネ・フランセ」にてフランス語を学ぶ。カナダのフランス語圏であるケベック州にて観光ガイドとして従事。「ホリディーイン成田ホテル」のレストランの料理人たちへフランス語指導。シャンソンをこよなく愛する一人です。

(c)ドイツ語
講師プロフィール:ドイツ政府唯一公認のドイツ語専門機関「ゲーテ学院」にてドイツ語を学ぶ。仕事でドイツへ数多く渡航。ドイツの中世史研究家。

(d)ロシア語
講師プロフィール:ロシア公認のロシア語研修期間「日ソ学院」にてロシア語を学ぶ。後に「ロシア語研究会」を主宰。ロシア各地を一人旅する。ロシア史研究家。ロシアの国民的歌手「ヴィルツキー」の愛好家でもある。

(e)スペイン語
フラメンコを通じてスペイン語を習得

[特殊能力]

*輪ゴムを使って飛んでいるハエを撃ち落とす技(確率99%)   

(趣味)
 シナリオ(台本)書き
 ピアノ演奏(ベートーベンの月光ソナタ、マイ・ウエイ、ミスターロンリーその他)
 香具師の口上
 柔道
 絵画鑑賞(主に自然派)
 西欧図像学(イコノグラフィ)研究
 西欧教会建築研究
 西欧中世期のペストの研究
 座禅道(永平寺にて修行)
  モデルガン収集
 日本刀鑑賞
 古洋書収集家(主にフランス、ドイツ、イギリス圏)
 映画ビデオ収集家(主に海外版)

(スポーツ)
殺陣(立ち回り)
武道
ダンス

(国際交流活動沿革)
(1)団体名:小さな国際交流協会
留学生の日本での家庭滞在プログラム主催
*草分け的存在、各地方新聞(岩手県花巻市、三重県尾鷲市、四日市市等で活動紹介
(2)獨協大学時代
社団法人「JYVA=日本奉仕協会」にて大学2年生と3年生の各夏休み期間中(各1ヵ月半)九州の佐賀県基山町の老人ホームにて「ボランティア活動」に従事

 

 

 

Thursday, 14 February 2013

日本の国会図書館への書蔵論文:「宇宙産業・宇宙旅行の将来の展望と宇宙旅行参加者の限界点の考察」日本国際観光学会(第19号)

日本の国会図書館への書蔵研究論文

*INIFTYブログでは、図表が反映できないのでご了承ください!!!

宇宙産業・宇宙旅行の将来の展望と宇宙旅行参加者の限界点の考察
The insight of the future prospective of the space industries & the space travel and the space travel participants’ limit.

キリスト教文化圏とイスラム教文化圏の文化比較視点から分析
The analysis of the cultural comparison viewpoints between the Christianity cultural scopes and Muslims’ one.

The space industry has the peerless possibilities.  Especially, the space travel business has the great latent demand. The business has the unlimited possibility for being able to make advantage of the space infinite resources as “New frontier of 21st century. Besides, the wonderful social contribution and the economic efficiency may be given birth to through the business.
Concretely speaking, more than ten million can be traveled every year, and the people may obtain great possible employment opportunities for the space stations (hotels) which may be constructed in the future, for example.
Under the circumstances, I try to make a research on the possibilities of the space industry and space travel in the near future ,and analyze the space travel participants’ limit, also.
I investigate the number of the space participation limit from the viewpoint of the religious value differentiation between the Christianity & Muslim through the space industry and space travel development studies.

1.はじめに
1961年、ケネディ大統領は60年代中の月面有人着陸を目指すアポロ計画の国家的遂行を宣言した。リーダーの強い意志の下で不可能と思われた計画は可能となり、1969年、アポロ11号によって、その目標は達成された。アポロ計画は、人類が月に到達するという夢の実現だけでなく、我々に宇宙産業や宇宙旅行の実現への可能性の道を開く契機となりました。 特に、宇宙旅行では、 数字的に考えると、先進国の人口の10%が一度の宇宙旅行に2万ドル(約200万円)払うとすると、2兆ドル(約200兆円)の市場となります。これはこの市場規模を小さく見積もっているのであってもっと可能性があります。世界で急速に人口が増えている中間クラスの人々も含め、50%以上の人が宇宙旅行に行きたいと言っているのです。その内、多くの人が一度ではなく何度か行くことを望んでいます。以上のような無限の可能性がある宇宙旅行産業は、観光産業のみならず全産業の活性化に大いに貢献することを確信いたします(1)。

2. 問題提起
私は、世界的な宇宙開発の現状を考察しながら、特に宇宙旅行に話を絞り仮説を提示し、それに対して私なりの分析を試みます。
つまり、私は「宇宙産業や宇宙旅行」には、宗教による違いからその展開の違いが存在し、それによって二極化が認められると思う。つまり、一方では、宇宙への強い憧れがあり、宇宙旅行への道の開拓精神が見受けられ、他方では実際の宇宙への憧れが見受けられなく、それを否定した傾向があり、むしろ過去から継承されたものに固執する傾向が存在するように思われる。無限の可能性のある宇宙旅行の世界的な将来を考えるとき、前者の宇宙旅行への憧れ傾向のとは違い、後者からの参加者の増加を期待することができなく、ある意味では参加者増加の限界点を認めざるを得ないのです。つまり、「宇宙旅行への参加希望者人数の限界」広く言えば「宇宙へのあこがれ性向」は、宗教文化圏の違いによって参加希望者の相違の存在を立証いたします。
これから各地域の文化圏の宇宙開発を概観して、宇宙への憧れ性向、言い換えれば宇宙方向性=未来志向性との関連性と先祖が築き上げた遺産重視=過去指向性の視点から分析をいたします。
世界の3大宗教である仏教・キリスト教・イスラム教の中でのキリスト教とイスラム教との観点からその仮説(二極化とイスラム圏からの参加者の限界ボーダー)を立証いたします。

3.先行研究の考察

3-1 宇宙開発の状況の世界的な趨勢

図―1 各国の政府宇宙予算
      出所:宇宙航空研究開発機構JAXA長期ビジョン- JAXA 2025 -

この折れ線グラフから分かることは、(1)欧米の宇宙予算が年を追うごとに増大の傾向になる(2)日本は平成13年度をピークに漸減が続き、あまり積極的な動きが見られないのです。

図―2 政府宇宙予算対GDP比率の各国比較表
アメリカ 0.28
ロシア 0.12
フランス 0.12
インド 0.1
イタリア 0.07
日本 0.05
イスラエル 0.05
ドイツ 0.04
カナダ 0.03
韓国 0.02
イギリス 0.01
中国 0.01
ブラジル 0.01

(図が添付不可能)

 出所:航空研究開発機構JAXA長期ビジョン- JAXA 2025 -のデータから著者作成
*宇宙予算対GDPの各国の比較から日本は第6位に位置であります。

3-2 各国の商業ベースの宇宙産業のデータを紹介いたします。

但し、日本の宇宙産業は、残念ながら他の国々と比較してかなり立ち遅れています統計を合わせて明示いたします。

(世界の宇宙への活動状況)
宇宙への海外のロケット・衛星打ち上げ実績
商業ベースのロケット打ち上げ回数
(1998~2002年)
米国:48回、ロシア:30回、欧州:44回、中国:5回、その他:17回
各国の衛星打ち上げ機数(1998~2002年)
*軍事・民事・商業全てを含んだ機数
米国:265、ロシア:84、欧州:63、中国:18、
日本:17、その他80
世界の衛星打ち上げ統計
世界の衛星打上げ累計個数は、2006年末時点で5736個。CISと米国だけで約88%を占める。日本は119個で世界3位に付ける。打ち上げ場を保有する国は13カ国(日本・米国・ロシア(CIS)・カザフスタン(CIS)・フランス・イタリア・豪州・スウェーデン・ノルウェー・インド・中国・ブラジル・イスラエル)。
国・地域・国際機関・多国籍企業別衛星打上げ個数(2006年12月末.上位10ヶ国.カッコ内は05年12月末)

図―3 海外のロケット・衛星打ち上げ実績
          (A図)                      (B図)
 

出所:CSP JAPANのデータから著者作成

(A図)は,商業ベースのロケット打ち上げ回数(1998年~2002年)(B図)は、各国の衛星打ち上げ機数(1998~2002年)
*日本はまだ商業ベースのロケット打ち上げの経験がない
*日本は人工衛星の打ち上げ個数も米欧露と比較して少なく、十分な宇宙実証機会に恵まれていない。

図―4 宇宙関連企業の売上高比較

出所:SPACE NEWS,2003

*2002年の資料ですが、日本の会社は、売上高を見るとボーイング、ヒューズ・エレクトロ二クス,ロッキードマーチン等のトップ企業に大きく差をつけられている。
*14位以下に日本の会社が登場しているように、日本はまだ発展途上にあり、これから企業の力量が期待されています。

図―5 衛星打ち上げ実績

世界の衛星打ち上げ実績                  企業別受注残の機数
(2004~2008)                (2007)

出所:社団法人日本航空宇宙工業会 平成20年度宇宙産業データブック

*最近5年間の世界の衛星打ち上げ実績は、年間90機(概算)
*日本企業の商業静止衛星受注残数は、2007年時点で1機のみ。2008~2009年には、三菱電機が3機(外国の通信衛星、日本の気象衛星2機)受注。
*この図の衛星打ち上げでは日本の後進国であること。

図―6 ロケット市場の概況
ロケット打上実績
(1998~2002年   343機)

出所:CSP JAPAN

*この図は、政府(軍事)レベル・民間レベル・商業(企業)レベルのロケット打ち上げ実績です
*日本では、政府レベルでは実績がなく、むしろ民間レベルである「宇宙航空研究開発機構」のみが活躍しています。

3-3 宇宙を経験した宇宙飛行士の関連資料

図―7 宇宙へ行った人(国別ランキング)

  女性 男性
米国  39 276
ロシア  9 96
ドイツ  0 10
フランス  1 8
カナダ  2 6
日本  1 6
中国  0 6
イタリア  0 5
ブリガリア  0 2
オランダ  0 2
ベルギー  0 2
カザフスタン 0 2
インドなど22カ国 0 1
英国など3カ国 1 0
 

出所:東京新聞2009年4.19(知り得ランキング)のデータから著者作成

東京新聞によると、宇宙へ行った人は世界に492人いるという。何回も行っている人がいるので延べ人数はこれより多い1077人にのぼる。専門に訓練された宇宙飛行士だけでなく報道関係、民間旅行者などを含んでいる。
 国別では、宇宙開発の2大国である米国とロシア(旧ソ連を含む)がそれぞれ315人、99人と第3位ドイツの10人を大きく上回っている。特に米国は全体の64.0%と圧倒的である。
 日本は7人とドイツ、フランス、カナダに次ぐ世界6位である。
 「日本人初は1990年。当時TBSに勤めていた秋山豊寛さんが旧ソ連のソユーズに搭乗し、宇宙から地球の映像を生中継。その2年後に、毛利衛さんが日本政府の宇宙開発事業として初めてNASAのスペースシャトルに搭乗した。
 日本初の女性宇宙飛行士は、94年と98年の2度、宇宙へ旅立った向井千秋さん。2人目の山崎直子さんも、2010年以降のスペースシャトルに搭乗し、国際宇宙ステーションに約2週間滞在する予定。」(出所:東京新聞2009.4.19)

3-4 宇宙旅行について資料

A.政府レベル(世界)
2005年の宇宙開発は概ね盛況でありました。日本国内では、HⅡA7号機の打ち上げ成功(2月)、「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」に着地成功(11月)がありました。海外に目を向ければ、スペースシャトルの再開と野口飛行士の活躍(7月)、中国が有人宇宙飛行船「神舟6号」(2人乗り)の成功(10月)、欧州宇宙機関(ESA)の探査機ホイヘンスが土星の衛星タイタンに着陸成功などがありました。

B.民間レベル(日本)
(1)JTBが米宇宙旅行会社のスペースアドベンチャーズ(SA)と業務提携し、SA社が取り扱う宇宙旅行をJTBが日本国内で独占販売する。
(2)リチャード・ブランソン会長率いるヴァージン・グループのヴァージン・スペースシップ・エンタープライズの英国の宇宙旅行開発会社「ヴァージンギャラクティック社」の日本の代理店となっている旅行会社「クラブ・ツーリズム」と業務提携し、販売を開始。

3-5 宇宙旅行実現の意義

(宇宙旅行の効果及び需要)
宇宙観光ビジネスは潜在的に十分な需要があり、航空産業のように100兆円規模の市場になり、数千万人の仕事が生まれると考えられています。年間数百万の人が宇宙を旅行できるようになり、数千の人が宇宙ホテルで働くようになるとこの成長は文字どおり無限です。宇宙ビジネスは21世紀の新フロンティアとして宇宙の無限の資源を利用できる可能性をもっており、その開拓はすばらしい社会への貢献と経済効果を生むでしょう。(1)数字的に考えると、先進国の人口の10%が一度の宇宙旅行に2万ドル(約200万円)払うとすると、2兆ドル(約200兆円)の市場となります。これはもっと可能性のある市場を少なく見積もってのことです。世界で急速に人口が増えている中間クラスの人々も含め、50%以上の人が宇宙旅行に行きたいと言っているのです。その内、多くの人が一度ではなく何度か行くことを望んでいます。
*本文のアンダーラインは著者により書き加えられたもの

3-6 アンケート調査
下記の4種類のアンケート調査について分析を行なった。各々の調査において宇宙旅行に対してポジティブな回答のパーセンテージを示す。

(1)1995年パトリック・コリンズ麻布大学教授アンケート調査 (3,030名)
  「宇宙に泊まって地球を見たい。そのためには3ヵ月分の収入を支払ってもよい」→70%
(2)2004年日本航空協会「佐賀スカイ・レジャー・ジャパン」アンケート調査(125名)
「宇宙旅行に行きたい」 → 87.2%
(3)2004年12月インターネット・アンケート調査My Voice.com (16,007名)
「宇宙に大いに行きたい」→ 21.9%
「やや行きたい」→ 31.5% 合計 53.4%
(4)2004-5年 日本航空協会東京地区サラリーマンアンケート調査(110名)
「宇宙旅行に行きたい」 → 67.3%
出所:「航空と文化」航空宇宙輸送研究会
*アンケート結果として、言えることは多くの方々が、宇宙旅行への関心の高さがあるニーズがあることです。
以上の論述を通じて、「宇宙両の無限の可能性」を痛感するのです。

3-7 宇宙旅行料金の設定について

 宇宙旅行は、当然のことながら、相当高額な料金となることは疑いない。 旅行料金の設定は、需要との関連で重要なファクターであり、いくら位までが可能な範囲かについていくつかの料金設定具体例を基に考察を行なった。
  まず、現在旅行業界で流通する高額旅行としては、世界一周クルーズが上げられる。
具体的商品としては、下記があり共にキャンセル待ちの状況と言われている。料金は全て一人当りである。
(1)郵船クルーズ社「飛鳥」(客室276室)(2)
101日間旅行料金 380万円~1,800万円(早期割引340万円~1,600万円)
(2)商船三井客船「にっぽん丸」(客室238室)
101日間 旅行料金 171万円~810万円 (早期割引157.5万円~729万円)
このように需要量の大きさはともあれ、数百万円あるいは一千万円を超えるような高額旅行に対してもその価値の認知度に応じて一定の需要があることが判る。

 宇宙旅行に眼を転じれば、アンサリ Xプライズを獲得したスペースシップ・ワンをスケール・アップし2007年就航を目指すリチャード・ブランソン会長率いるヴァージン・グループのヴァージン・スペースシップ・エンタープライズが現在最も商業ベースに近いと目されている。この場合、訓練3日に加え、巡航プラス15分程度の弾道飛行で総フライト時間2~3時間程度を前提に、約2,300万円(11万5千ポンド)という旅行料金が設定されている。ロシアのソユーズ宇宙船を使った「富豪のための宇宙旅行」20~30億円に較べればはるかに安いとはいえ、サブ・オービタルで無重力状態も数分と短い点からは割高感が無いでもない。一方、日本ロケット協会の「観光丸」構想では、地球軌道周回2周、飛行時間約3時間で旅行料金約295万円としている。分科会では、ヴァージンの約2,300万円と較べるまでも無く、少なくとも当初はこの10倍の旅行料金でも需要があるであろうという見方が大勢を占めた。出所:「航空と文化」航空宇宙輸送研究会

4.キリスト教世界とイスラム世界との「宇宙産業・宇宙旅行の価値観」相違の考察

4-1 事例考察
クラブ・ツーリズムの「宇宙旅行」の資料を紹介いたしますと、次の通りです。
宇宙旅客機(スペースシップ2)を利用(3)
世界で400名中、日本人12名ということですが、他にはどんな国の方が申し込んでいますか?
(どの国の方が多いのでしょうか?)
大まかな国別の参加者割合は以下の通りです。(2008年時点公表数値)
アメリカ40%、イギリス約17%、ロシア5%、オーストラリア4%、日本4%、スペイン4%、カナダ3%、その他23カ国より参加。

4-2 事例考察海外のSF(宇宙を対象とした)映画の比較論
以下の表は、1950年代~2000年代の海外のSF小説を映画化した国別のものです。この期間の代表的なもの、合計122本です。
注目点は、このリストにはイスラム世界のSF映画が見当たりません。
(国別内訳)
米国 95本
英国 11本
仏 1本
露 2本
独 1本
チェコ 1本
伊・米 2本
米・英 4本
露・米 1本
伊・仏 1本
米・独 1本
日・カナダ・米 1本
著者が表作成
各国のSF小説のタイトルから宇宙映画に関連した作品数を取り上げます。(4)

事例考察から(1)からは、参加者の国別にイスラム圏の参加者が見られず、(2)では海外SF小説を映画化した国別のものには、イスラム圏のSF小説を映画化したものがありません。
また、今まで考察しました、宇宙産業では、(1)宇宙予算対GDPの各国の比較(2)世界の衛星打ち上げ統計の国別(3)世界の宇宙への活動状況(4)海外のロケット・衛星打上実績(5)宇宙関連企業の売上比較(6)ロケット市場の概況(7)宇宙へ行った人(国別ランキング)等で、イスラム圏の国々・国民が見られません。

5.2大宗教からの分析・結論
2つの宗教、つまりキリスト教とイスラム教を取り上げて考察します。
その2大宗教は「砂漠地帯」から生まれたのですが、それら2大宗教は、「絶対の神」が最上位ですが、「自然」に対する考えが、キリスト教の場合、ヨーロッパの中世期に「人間中心的な価値観」が形成され、またアメリカでは「自然を開拓していく中で、勤勉は尊いという価値観を通じて「自然を最下位に位置付ける考えが形成されたのです。
キリスト教の世界観 神⇒人間⇒自然   イスラム教の世界観 神⇒自然⇒人間

つまり、キリスト教では「自然は征服できるもの」「神の領域である宇宙への侵略」の傾向があり、アメリカ人の格言である「山を動かす」で象徴されているのです。
他方、イスラム教では「自然を恐れ、畏敬するものである」。言い換えれば、神=自然と同一視する考えがあると思われます。それゆえに、「自然(宇宙)の神の領域を侵害しない傾向」があるのを認識できるのです。
別の観点から言えることは、キリスト教は、「外的な方向」での未知の世界(宇宙)への志向性があるが、他方イスラム教では、「内的な方向」での既定の世界(過去からの文化遺産:イスラムの信仰のシンボルであるモスク等)への志向性があるのです。つまり、前者は「合理主義の追求」であり、後者は「非合理主義への追求(信仰)」が認められるのです。

例えば、イスラムでは、財源的理由で実現が難しいと思われますが、しかし、例えば「モスク建築」には、宇宙産業に引けを取らない財源を投資しているのです。具体例として、アブダビで建設中のシェイク・ザーイド・グランド・モスク(Sheikh Zayed Grand Mosque)が、2007年9月にオープンしました。総面積22,412平方m2で、メッカとメディナの聖モスクに次いで世界で3番目に大きいモスクとなる。建造物の大きさでは世界10大モスクに入る。建設費用はDh21.67億(約650億円)でした。
キリスト教は、未来志向重視が強く、イスラム教は、過去指向重視であります。
提案として、過去の知識遺産を重視しながら宇宙への志向性との融合の方向性の中で一つのヒントが得られると思われます。
ルソーが提唱した言葉「自然に帰ろう」が思い出されます。人間がすべての合理化主義に突き進むならば、人類、広い視野から言うと地球という惑星に何も生物が生息しない将来が見えてくるのです。
 
人間が自然と共存できる世界を早急に作らねばならないと思われます。

■参考文献

*「宇宙産業の現状と課題」平成16年1月16日
経済産業省製造産業局、航空機武器宇宙産業課宇宙産業室
*「異文化マネジメント(国際ビジネスと文化人類学)」自然との関係P192
*クラブ・ツーリズムとJTBの宇宙旅行の料金:
クラブ・ツーリズム:日本での民間宇宙旅の販売について、2005年5月12日にヴァージン ギャラクティック社と提携しました。■実施日時   2010年 運行開始予定■参加費用  US$20万 (2,000万円)■出発地   米国ニューメキシコ州ヴァージンギャラクティック社宇宙旅行基地■全フライトタイムは2時間の予定 (宇宙空間 25分)宇宙とは 地表から100km以上の空間です
JTB:月旅行、国際ステーション滞在から無重量体験まで■月旅行 一億ドル (100億円)月旅行は2012年以降実施予定です■本格宇宙旅行 軌道飛行 国際ステーション滞在本格宇宙旅行はすでに実施しており、今までに5人の民間宇宙飛行士が宇宙旅行を体験しています■宇宙体験飛行 弾道飛行 現在機体開発中

引用文献

(1)東京新聞2009年4月19日の記事
(2)航空と文化の2005年の記事:「宇宙旅行実現の可能性」日本航空協会 文化情報室長 穴吹 和士

(3)航空と文化の記事:「航空事業から宇宙旅行事業化を検討して」アンケート調査、宇宙旅行料金の設定について日航財団 橋本安男
(4)クラブ・ツーリズム HP「宇宙旅行]

(1)宇宙旅行の無限の可能性の事例:日本ロケット協会がデザインした、乗客を軌道まで運び帰還させる宇宙旅客機、観光丸は広く知られています。もっとも、彼らが見積もったコストは非常に高いものですが。その見積もりとは、軌道までの往復が可能になるであろう投資額は約120億ドル(約1兆2000億円)で、開始してから10年間は、旅客一人につき運賃が2万5千ドル(約250万円)というものです。 日本ロケット協会が作ったシナリオでは、3年を超える1200回のテスト飛行を終えた後、2010年に50人乗りの‘観光丸’が宇宙旅行サービスを開始します。1年間に8機作ることで、旅客数は年に10万人になります。そうして、2020年には年に100万人の旅客となり、更に成長が続き2030年には年に500万人に達します。その頃には、次の図で示している、より進歩したサービスが始まります。
次の図のシナリオでは、2030年までに4千万人の人が宇宙を訪れることになっています。つまり、中間クラスの約2%です。実際はこのクラスの人のほとんどが宇宙旅行を望んでいるのです。また、宇宙旅行の経済的価値は1兆ドル(約100兆円)以上になります。そして、雇用効果は膨大で約2万人の人が宇宙ホテルのスタッフとして宇宙で働くことになるでしょう。宇宙ホテルは何十年かの間は宇宙で最も大きな雇用を生み出すでしょう。その経済効果は年に1兆ドル(約100兆円)の市場となります。している、より進歩したサービスが始まります。

(2)郵船クルーズ社「飛鳥」のクラス別参加料金表
■2011年世界一周クルーズ 旅行代金<お一人様>
《早期申込割引代金》 <単位/円>

《通常代金》 <単位/円>

※早期申込割引代金は2010年10月31日(日)までにお申し込みの場合に適用となります。
※客室をお2人様でご利用の場合のお1人様の代金です。
出所:「飛鳥」のHPから転記

(3)
2時間の宇宙旅行の詳しい行程を教えてください。
詳しい行程は以下の通りです。

宇宙旅客機(スペースシップ2)の乗り心地はどんなものですか?快適なのでしょうか?
空中でのロケット噴射後に3.5G程度、地球に戻る大気圏突入時に6Gの重力加速度がかかります。
スペースシップ2は、ビジネスジェット並みの広いキャビン、リクライニングシートや沢山の外を眺めれる窓で、できるだけ快適な宇宙の旅になるよう設計されております。
3日間の準備訓練はどんなものですか?
重力加速度や無重力に備えた内容の事前訓練になる予定です。
健康診断も同時に行われます。詳細はこれから決定されます。
現地での健康診断の結果、(体力的な問題等で)出発できないという場合もありうるのですか?
一般的に健康な方であれば参加できる宇宙旅行ですが、健康診断などで参加が難しいと判断される場合もありうります。
事前の健康診断書の提出、健康基準については、今後検討の上、決定されます。
出発が当初より延びていますが、具体的な旅行実施時期は?
2005年の計画の発表時には、早ければ2008~9年に商業宇宙旅行開始ということでした。現在の状況では、2012年以降の開始になりそうです。
ヴァージン社はスピードを競うより、安全を最優先してこの計画を進めていきたいと表明しております。
又、第1便は、ヴァージングループのリチャードブランソン会長が、ご両親やお二人のお子様のご家族を連れて最初に参加する予定です。
トップ自らが安全を確認をした後に、お客様をご案内する予定です。
実際の宇宙旅行のときには機内で、写真撮影や飲食は可能ですか?
まだ正式な形で、機内で何が可能か、不可能かということまで発表されておりません。基本的にカメラやビデオの持込は可能の予定ですが、大きさなどに制限を設ける可能性があります。ヴァージン社はできる限り、思い出に残る宇宙旅行の演出を考え、搭乗者の様子を記録し、お渡しをすることも検討しております。
出所:クラブツーリズムHPの「宇宙旅行」から転記

(4)
1950年代~2000年代の海外のSF小説を映画化した映画作品
☆映画化がされた小説
*メトロポリス(1927年/独)てア・フォン・ハルボウ
* ロスト・ワールド(1925/米)アーサー・コナン・ドイル 
* 透明人間(1933/米) H・G・ウェルズ
* 月世界旅行(1902/仏)H・G・ウェルズ
*地球最後の日(1951年/米)フィリップ・ライリー&エドウィン・バーマー
* 地球の静止する日(1951/米)ハリイ・ベイツ
* 渚にて(1959/米) ネビル・シュート 
* 蝿男の恐怖(1958/米)ジョルジュ・ランジュラン
* 宇宙戦争(1953/米) H・G・ウェルズ
* 遊星よりの物体X(1951/米)ジョン・W・キャンベル・ジュニア  
* ボディ・スナッチャー 恐怖の街(1956/米)ジャック・フィニィ 
* 原子怪獣現わる(1953/米) レイ・ブラッドベリ  
* イット・ケイム・フロム・アウター・スペース(1953/米) 
* 地底探険(1959/米) ジュール・ヴェルヌ 
* 海底2万マイル(1954/米)ジュール・ヴェルヌ
* 悪魔の発明(1959/チェコスロバキア)ジュール・ヴェル
* 悪魔の発明(1959/チェコスロバキア)ジュール・ヴェルヌ 
* 蝿男の逆襲(1959/米) ジョルジュ・ランジュラン
* 月世界征服(1950/米) ロバート・A・ハインライン
* 猿の惑星(1968/米) ピエール・ブール 
* 未知空間の恐怖 光る眼(1960/英)ジョン・ウィンダム
☆今後、映画化が予定されているとされている小説 
* 火星のプリンセス/エドガー・ライズ・バロウズ(2012年公開予定、監督アンドリュー・スタントン)
* 終わりなき戦い/ジョー・ホールドマン(リドリー・スコット製作予定)
* 宇宙のランデブー/アーサー・C・クラーク(モーガン・フリーマンが映画化、デビッド・フィンチャー監督予定)
* リング・ワールド/ラリー・ニーブン
* ハイペリオン/ダン・シモンズ(マーティン・スコセッシ監督)
* エンダーのゲーム/オースン・スコット・カード(ウォルフガング・ペーターゼン監督)
* ファウンデーション「銀河帝国興亡史」/アイザック・アシモフ、: アルベマス/フィリップ・K・ディック
☆今後、リメイクの予定があるとされている作品
* トータル・リコール(レン・ワイズマン監督、リメイク撮影中)
* 海底二万マイル(マック・G監督予定)
* 地球最後の日(スティーブン・ソマーズ監督予定)
* 華氏451(フランク・ダラボン監督予定)
* ミクロの決死圏(製作総指揮ジェームズ・キャメロン)
* 2300年未来の旅、
* ウェスト・ワールド
* 人類SOS!
* スローター・ハウス5
* 地球爆破作戦(ロン・ハワード監督予定)

Wednesday, 13 February 2013

習志野商工会議所2013年度2月号「アイ・オフィス」の紹介記事

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( ´_ゝ`)ノボンジュール♪
                      
*2013年度2月号に
「アイ・オフィス」の活動紹介記事が載りました。

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Saturday, 09 February 2013

日本の国会図書館への書蔵研究論文:我が芸術論(序論)-2012年度高崎商科大学「紀要」論文採用決定稿

日本の国会図書館への書蔵研究論文

「我が芸術論(序説)」
高崎商科大学兼任教員
岩崎秀夫
MY ATTEMPT AT THE INTERPRETATION:ART
Hideo Iwasaki
What is Art? Many artists and scholars deal with the analyses or opinions of it.
One of my respectful man, TANEDA-SANTOHOKA (the great vagabond poet) was very deeply sensitive to the natural atmosphere (wind stream, river motion, sky change etc.) and symbolized it as verbal words and raised it to such an extent that the art be called. On the other hand, in Occidental world, the great composer, BEETHOVEN, he made great music works with physical & mental struggles. At any rate, I wonder if the two big artists might find out the extreme substance (art) in a mental solitude.
I, therefore, noticed that a great historical art works could be embodied by the loneliness. Also, great art works can’t be forgotten. The art can be existed beyond the times. In my case, I intend to expound that I contemplate what the art is in daily lives by my actor’s experience viewpoint. In short, the art is one transformation of the contemporary culture: it must make in a certain way contribution to the culture intensification in itself. In my feeling, the artists can get imagination, creation, and intuition owning to the power Nature, and the culture is transparent and fluid, and is like amoeba in other words. The culture is changeable and , to meet the contemporary times, the art also has to reflect the requirements of the contemporary culture on the stage mirror. So far as the art is concerned, it has to keep illuminating the existing colorful, presentable ‘RAY’ towards the culture. The art has to offer the ray to lighten on the right way of the culture proceeding.
<キーワード:光・アメーバ・自然の美>
(序文)
『演技』について考える場合、第一に考察しなければならないことは、『文化』とは何かということである。社会科学的見地からは、『文化とは何世代にもわたる人や集団の努力によって多くの人々により受け継がれた知識・経験・信念・価値観・態度・意味・階級・宗教・時間の観念・役割分担・空間の使い方・世界観・物質的な財産などすべてを包含したものである。』と言われている。この解釈を通じて、私の見解として、人間社会が存在する限り、換言すれば、一人の人間のみでは『文化』は生まれにくいものであり、自分以外の他者が存在しなければ成り立つのが困難である。但し、それは明確な概念ではなく、まるでオブラートそのものであるように思われる。つまり、先ほど述べた知識やその他の諸概念を包含する透明可視的なものであり、次の世代がその中を見通して学ぶものである。また、『文化』は、ある種の生き物のように感じられる。つまり、アメーバであり、その時代、また別の時代に外見的に変身しながら存在し続けるのである。いづれにしても、『文化』という器に先ほど述べた諸概念が存在している。『芸術』もその器の中に存在しているのである。しかしながら、芸術の存在意義は、『常に新しいものを作り上げる創造的なものであり,実在表現のLUX(光)を放射し続け文化に虹彩を与えるもの』であると確信する。
 私の専門分野の一つである『西欧の教会建築、イコノグラフィー(図像学)』では、西欧の12世紀以前のロマネスク様式と12世紀以降のゴシック様式とは、別物に見られる傾向があるが、前者が存在したから後者が生まれたと考えられる。つまり、文化の性癖である『過去から学ぶ連続性』を痛感せずにはいられないのである。フランスのラン大聖堂、アミアン大聖堂、シャルトル大聖堂等のそれらの建築物は勿論のこと、それらに付帯した壁面に彫られたイエスの姿や諸聖人の人物像またはマリア像などの彫刻作品は、『宗教的信仰の対象物としての宗教的作品』という本来の価値を認識する以上に『崇高な芸術品』としての価値をそれらに見出すのである。
 『芸術』の別の視点として、本来は、それは自己表現の顕在化であり、自己の感情の発露である。その点では、『芸術』という言葉では、本質的な意味では偏狭的な理解に陥ってしまうのであり、その言葉の一言では表現することができないものである。例えば、西欧の中世に隆盛しました『巡礼』という行為現象を考えてみても、人間は、そのときはひとつの明確な『信仰心』といわれる動機がその行為に導いたことは確かであるが、クリッシェな見方をすれば、『自己感情の表現行為』ということも言えるのではないだろうか?また、現在、アフリカやその他の文明社会から感化されていない社会圏でいろいろな集団儀式を執り行うときに付帯的要素として『踊り、衣装、化粧』の行為が、まさに『自己表現の顕在化』であり、むしろ「自己存在の確認を意識すること」という表現が適切であると思われる。
 本題の芸術の『常に新しい創造性の追及』に戻ると、模倣的・クリシェなものは排除される。つまり、現代という時間の中で所謂「古典」といわれる芸能(日本の能・浄瑠璃・歌舞等)が伝統に完全に100%制約されたものであるならば、形骸化され一般の人々からの関心事から取り残される運命にある。常に、その時代に適合するように努力し新しい要素の構築しなければならない。
諺曰く”The rolling stone gathers no moss.":流転しているものは、苔が付かない。
スタニスラフスキイの言葉を借用すると、それは『創造的芸術の追及』である。

(第1章)
 前述した『教会建築』について、『常に新しい創造的ではない』と異論を唱える人がいるかもしれないが、私が思うにはそれは皮相的な考えであり、よい芸術作品は、対象物の作品からその創造的な何かが鑑賞者の心の感受性に訴えかけて「ある創造的な力を誘発するもの」である。それこそが、『芸術の創造性』である。トルストイ曰く『一度味わった心持を自分の中に呼び起こして、それを自分の中に呼び起こした後で、運動や線や色や音や言葉で現される形にしてその心持を伝えて、他の人も同じ心持を味わうようにするところに、芸術の働きがある。芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見えるしるしを使って自分の味わった心持を他の人に伝えて他の人がその心持に感染してそれを感じるようになるという人間の働きだ。』(『芸術とは何か』の一節から引用)(注1)。トルストイは、鋭い洞察力のある『芸術』の分析を試みているのである。つまり『相互の働きであると同時に綜合の交流』であると示唆しているのである。ロシアの偉大な大芸術家であるトルストイの文章を引用し、なお且つ私の稚拙な芸術論を比較するのは、あまりにも傲慢すぎるが、それを許していただけるならば、ある一点では、私の芸術論と関連を痛感する次第である。つまり、『教会にある諸聖人その他の登場人物を制作した当時の人々の心持と時間空間を越えてそれに感染した、または感染している、または感染するであろう鑑賞者の関連』を認めるのである。何故『時間的・空間的』という言葉を使ったかといえば、『芸術』とは、それらの枠(Der Rahmen)が存在しないのである。
 次に、芸術の『美の追求』について述べようと思うのである。『美』とはなんぞやと考察するのである。よく言われるように、「肉体的な美しさ」から定義される傾向があるように考えられる。私の『美』とはそのような皮相的な意味から言っているのではなくもっと内面的な、もっと深遠な宇宙を超越した同一性を感じるときの、言い換えれば、よりメンタルなもの、よりスピリチュアル(霊的な)な存在と接するとき『美』の存在を感じるのである。つまり、すべての虚飾が剥がされたときの「自然が作った造形物の美しさ」であり、つまりは「人間の裸体」であり、「虚飾が一切ない姿」である。自然は偉大であるとよく言われる。自然の造形した美しさは、どんなに人間がどんな努力してもかなわないものである。私は、最近考えるのは、よく『自然』という言葉を安易に使うが、意識の中で何か自分とは乖離した存在と言っているように思われる。何か人間の傲慢さを感じるのである。いつごろから我々は、そういう意識が芽生えたのであろうか?歴史的に見て、例えば、ヨーロッパではローマ帝国時代以前の社会では概して自然の中の人間生活を営んでいた。例えば、ケルト民族やゲルマン民族は、自然を畏れ敬った価値観を持っていた。それがローマ時代を境にキリスト教の影響で『人間中心主義』の見方が芽生えてしまったのである。まさに『自然無視・自然に対する畏敬の念の喪失』からの自然破壊が起こり、その流れが現在でも続いているのである。近い将来、自然からの大きな報復がなければよいと危惧するのである。その点では何か『芸術の使命』を感じてしまうのである。つまり、『芸術が自然界の伝道者にならねばならない』と信じるのである。自然は、『美の探求者』である。否、自然は、美の造形者ではなく、『美』そのものとの理解が必要である。
暁の天空を思い出してください、
朝靄の中の自然の鼓動の音色に耳を向けてください、
天空を覆う宝石のような星たちを見上げてください、
足元の昆虫たちの小さな営みを観察してみてください、
きっと『自然の偉大さ』を感じることでしょう。(著者の自作)

(第2章)
 次に『芸術の存在意義』について考えてみたいと思う。ご存知のように、現在という時代に目を向ければ、科学・技術の進歩による恩恵を多くわれわれは受けている。例えば、医学の進歩による寿命の伸長、水力発電による電気の供給、天気予報のある程度の予測、安定した食料の生産、交通機関による時間の短縮化それに伴う流通産業の効率化、コンピューターの普及による情報の迅速化、別の見方をすれば戦争武器の破壊力(科学兵器・核兵器)の未曾有の進歩その他例を挙げればいくらでもあるように科学・技術の偉大さには賞賛を惜しまない。しかしながら、何か物質的な面だけが先行している傾向があるように思われるのだ。現代の社会は、イコール『こころの貧困化』とよく言われる。現象として敵対心・猜疑心(不信)・命の軽視・他人に対する思いやり・ものに対する愛着心の軽薄・自然に対する畏敬の念の欠乏とその破壊・日本における自殺者の増大・人間同士の殺し合い・戦争・虐殺その他。なぜこのような物質面と精神面との不均衡が生まれたのであろうか?人間は、新しいもの・便利さ・合理性を好む傾向が本能的にあり、それらに魅了されてしまうのである。それの飽くなき追求により人間は『何か大きなもの』を置き去りにして邁進しているように思われる。人間の弱さといえばそれまでの話だが、そのような状況に『芸術の果たす役割とは何か』ということをいつも考えるのである。小説、悲喜劇、絵画、彫刻、舞踊、建築等が具体的な芸術といわれる分野だが、それらの果たすべき役割とは甚大であると思われる。それらは人間の内面性を追求したものであり、「社会に与える影響」を考えると責任重大である。ロシアの文豪トルストイは、次のように『芸術』を定義している。『個人を人類の生活にとっても善に向かう運動にとってもなくてはならない必要な人間の交通手段、人間を同じ心持の中に結びつけるための手段である』(注1)。その言葉の中にすべてが言い尽くされていると思われる。同じ心持を誕生させるのが芸術の使命であり、また芸術のテーマがいつも真剣に問われなければならないと思うのである。ところで、私がこの芸術論(序論)で『芸術は、文明にLux(光)を放射し文化に虹彩を与えるものである』と述べたが、最近読んでいるトルストイの『芸術とは何か』で別の見方が論述されているので紹介したいと思う。「苦しみ、快感を実際または想像で味わった人がカンバスや大理石に表わしたものを見て、他の人たちがそれに感染した場合それがまさに芸術である」(注1)。そのような観点では、絵画も教会堂の建築物やそれに彫られた諸聖人像は、芸術作品と言えるのではないだろうか?彼は言葉を続ける『見る人聴く人が創作家の受けた心持に感染すると、それで芸術になる。もし人間に、昔生きていた人たちの頭に浮かんだ思想を(言葉)で現したものを取り上げたり自分の思想を他の人に伝えたりする力がなかったとすれば、人間は野獣と同じである、また人間のもうひとつの力、(感情の領分の芸術)によって感染する力がなかったならば、人間はもっと野蛮なもの、最悪の状況としてこの人間界は、無秩序で敵同士になっていたかも知れないのです』(注1)。つまりここで、私の解釈として、ある意味で『芸術は文化の諸形態に虹彩を放射するフォース』であり、人類の永続、平和維持にはなくてはならないものなのである。
ラテンの言葉:Ommes artes,quae ad humanitatem pertinent,habent quondam commune vinculum.(人間性に関わるすべての芸術は、ある共通の絆を持っている)

(第3章)
 Est ergo pulchritudo realiter idem quod bonitas.(美は本質的には善に等しい)(von Ulrich von Strasburg)この名言は、確かにスコラ哲学概念が普及していた時代の考え方を反映したものであるが、つまり『美』はイコール『善』の考え方である。しかしながら、この名言は本質を衝いていると思われるのである。前章でも言及したように『砂漠化した人間社会のオアシスであり、人間の乾いた心への一滴の滴(しずく)であり、人間性を覚醒させる試金石であります。』。そういう観点から考えて見ると、私的な解釈として『西欧のキリスト教会建造物(バシリカ・聖堂等含)、修道院(洞窟)建造物、またその建物の内外に装飾されている彫刻群・絵画等の芸術作品群にある意味で善の象徴を感じるのである』。この建物を中心にそれぞれの時代の世界が動いていたのであり、その地域の住民はそれに精神的に拘束されたと同時にひとつの社会が形成され、善悪の規律・道徳観がフォーメションされたのである。そのような意味で、その建造物は現実的に存在したのであるが、むしろ当時の人々に精神的な拠り所として根を張ったのである。『教会建築』とは、そのようなスピリチュアルなこととして捉えているのである。現在フランスだけでも約2000の建造物が存在するということで、いかにそれぞれの地域で影響力を持ったのかと想像できる。誰でも教会堂を訪問すれば、内部の装飾の魅力(ステンドガラス色彩、正面の祭壇の上の聖人の像の崇高さ、天空を感じさせるドームの天井、柱に描かれた装飾、外壁のいろいろの装飾群)に深い感銘を受け神の存在を意識する雰囲気作りが感じられると思う。具体例の一つとして、規模は小さくまた教会堂ではないが、聖堂と言われているイタリアのラヴェンナの聖堂を取り上げてみる。イタリアの古都ラヴェンナにあるガッラ・プラチディアの霊廟は、外観は質素でファサード(注2)が灰色がかり、レンガ造りであり、タンパン(注3)には何も装飾がなく静寂の中に佇んでいる。しかしながら、一歩中に入ると、「モザイク芸術の傑作」を見ることができる。半円天井が素晴らしく、濃紺の背景に金の輪があり、白いマーガレットの花がちりばめられ、紺色の空を照らしている。クーポラ(注4)に描かれた金の星たちその中心に燦然と輝く金の十字架、クーポラの四隅に描かれた福音史家の象徴:聖マルコの獅子・聖ルカの牛・聖ヨハネの鷲・聖マタイの人間。ここを訪れる人々は、やはり同じような『神の存在』を感じたことであろう。この章で指摘したかったことは、『キリスト教会の書物や教会に書かれたラテン語の聖書の物語ではない、教会建造物から放射する芸術的な美の作品群を通じて人々に(神の存在)を意識させ、それによってその影響下にある人々に悪の道から救い出し人間として正しく生きるべき道を教え善へ導いた』という点である。昔から中世を通じて多くの人々は、ほとんどが文字の読めない文盲の人であった。壁面の刻印された聖書の物語、絵画に描かれた諸聖人伝、そしてステンドガラスに焼き付けられたマタイの山上の説教・詩篇が人々に優しく語りかけたことであろう。
ミケランジェロ曰く:『建築を多少勉強したことなしに大芸術家はありえない』。

(第4章)
 この章では、最も根本的なテーマである『宗教と芸術』の問題を取り上げて見たいと思う。ここでは難解な哲学的セオリーを述べようとは考えません。第2章で述べたように「芸術とは宇宙を超越した何かの存在と同一的なもの」と一致するように感じるのである。それは芸術イコール神的な存在かもしれない。私は、常日頃機会あるごとにいわゆる『五葉ではなく四葉の芸術』というものを鑑賞するようにしている。『芸術』の顕在化としてのクラリク教授が、その著書で『世界美・一般美学試論』で述べている『五葉の芸術』つまり味覚芸・嗅覚芸・触覚芸・聴覚芸・視覚芸を指摘している。私は、それらに自分流の諸芸を組み入れている。その五葉の中の四葉は、味覚芸としての菓子・料理、嗅覚芸としての御香、聴覚芸としての音楽、視覚芸としての絵画・演劇・建築・彫刻また散文が対象であり時間が許す限りそれらに触れるようにしている。クラリク教授と同様、現在の学者から注目されているフランスの学者ギョイヨーは「現代美学の諸問題」の中で、触覚、味覚、嗅覚が美的な印象を与える、または与えることができると述べている。(注1)
 本題に戻りますと、宗教では、現在社会には、仏教・キリスト教・イスラム教-神道その他もろもろの宗教が認められますが、私の見方として芸術という手段を通して宇宙の究極的な存在に(イギリスの偉大な歴史学者アーノルド=トインビーの言葉)接近できるように人間のemotionが飛び立つように役割を担っているのである。もう少し詳細に調べると,例えば仏教では、宗派によって多少の相違があるかと思うが、一般に読経(般若心経や法華経等)があり、太鼓やその他の音の共鳴があり、神道では祝詞があり太鼓の音がある。キリスト教の特にカトリックでは教会の基本文書である『三要文(信条・主の祈り・十戒)』を唱え、オルガンに合わせてコーラス隊が『神をたたえる歌』を合唱する。イスラム教では、モスクから町中に響き渡るコーランの調べがある。実際、私がトルコのイスタンブールを訪問したとき、その幻想的な響きに魅了された。以上から悟ったことは、響きや音によって異次元の世界へ心が惹きつけられ、まさに『何か崇高な存在』へ誘ってくれるのである。『芸術と宗教との関連性』は、人間社会が始まったプリミティブな時代から存在していたと想像する。現在でも未開な社会では神がかりな祈祷師といわれる人が神の信託を受けるために必ずある儀式が執り行われる。その挙行のために必ず舞踊や音楽が登場するのである。現存する諸宗教は、原始の原型を変形してある種の形態に作り上げられている。そして、ある意味では、それらの「芸術の顕在化」がなければ、宗教も多くの人々に影響をもたらし、また地域的な広がりを持てなかったのではないかとさえ思われるのである。むしろ、『宗教』は芸術より上位ではなく、それらの芸術の放出の最中にまさにその中に『宗教=崇高なもの=神的な存在=神』を人々は感じ取ったように理解するのがよいのではないかと思われる。このテーマに関連して、ひとつ指摘したいのは、近代音楽の未曾有の進歩を遂げたのは、Johann Sebastian Bach(1685~1750)の登場に大いに負うところがある。彼の音楽の原点は宗教音楽であり、宗教と芸術との深い関連性が浮かび上がってくるのである。偉大な哲学者であるアラン曰く:あらゆる音楽は、純粋さ、注意、服従、沈潜、平静によって宗教的である。宗教音楽はすべての人を傾聴させる。音楽的な魂は、審判の前ではきわめて些細なものにすぎぬもろもろ惨劇を超越して魂を高める。(注5)

(第5章)
 そして、私は、宗教と芸術(音楽)とに間に関連性を痛切に感じるのが、教会とパイプ=オルガンの並存である。ここで芸術の一形態の音楽に焦点を絞って話を進めようと思う。音楽でも一般に知られているジャンルとは違うマージナルな(音楽の規則性のない)もの、すなわちロム(Rom)音楽を考えてみたいと思うのである。たぶん多くの方は、『それは何ですか?』と質問すると思われるので、少しロムから説明すると、一般に定住社会圏を持たない『放浪の民』といわれ、昔から世界中を旅した民である。ドイツ語ではZigeunerといわれているが、彼らの生活は歌い踊り、手相占いをしていた。ここで注目されるのは、かれらは、野や森や川つまり大自然を愛し、自分らを『自然の王』という。以上の理由から彼らが歴史上登場することは皆無に近く、彼らについての資料を入手するのは大変難しいのである。現在では、彼らの系統をひくスペインでのGitano(ヒターノ)に彼らの存在を見ることができる。特にかれらは、音楽分野で才能を発揮して、『フラメンコ音楽』を世界中の人々へ紹介してきた。少し、フラメンコについて説明すると、スペイン南部アンダルシアのヒターノの間で19世紀半ばに生まれた。これに、フェニキア人、アラビア人、ユダヤ人の芸能とミックスされたものといわれている。カンテ(歌)、バイレ(踊り)、ギターラ(ギター)、サパテアード(足拍子),パルマーダ(手拍子)、12拍のリズムによって構成されている。フラメンコのリズムは、十数種類がある。つまり、神秘的なソレア・陽気なアレグリーアス・ブレリア・タンゴス・ティエントス・不思議な感じのシギリージャス・ファンダンゴス・マラゲーニア・ベルディアレス・グラナイーナス・タラントs・タンゴ=デ=マラガ・ファルーカ・ガロティン・ペテネーラス・セビジャーナ・グァヒーラス・ルンバスなどがある。ここで忘れてはならないことは、フラメンコの仲間の間では、「Duende」の存在を信じていることである。それは、霊であり妖怪でありその力によって舞台が展開しているといわれている。
 話をその流浪の民へ話を戻すと、この章でのもうひとつのテーマである宗教に関連した疑問として、『彼らには、宗教があるのか』ということを考えてみたいと思う。キリスト教徒に言わせれば、宗教に縁のない民であるとして無視され、また軽侮された。むしろある枠に囚われない教義を持たない、ある種の自然崇拝(アニミズム)の民族であると思われている。別の章で述べましたケルト民族やゲルマン民族との共通点が感じられる。共通点の考察を試みると、別の機会に譲るとして、とにかく、流浪の民は、森の精や川の精・太陽・星・宇宙全体を信仰している。ここで、この民の迫害の歴史を紹介したいと思うのである。彼らのヨーロッパでの出現は、15世紀の始めといわれている。何故15世紀からの登場かといえば、中世の終焉の時期で、都市の発展・貨幣経済の活発化・商業の発展の地域的広がり・利潤の追求等が見られ物的なのみならず人的な交流も活発化したのである。そのような状況で、彼らがヨーロッパと接することが可能であったと思われます。残念ながら、gadscho(軽蔑的な意味を込めたヨーロッパ人への呼び名)社会では、乞食・最下層民として位置づけられ、それはまさにユダヤ人と同じであった。彼ら流浪の民は、歴史上の記録の残ることがなく、その意味でヨダヤ人より悲しい存在でした。最近の例としては、ナチスの迫害があります。ユダヤ人迫害はよく知られていますが、その蔭に彼らの存在があったのである。

(第6章)
 ある統計資料(注6)によれば、ナチによる迫害の期間13年間の間に第二次世界大戦前は全ヨーロッパの流浪の民の人口は、大体百万~百五十万人と推定されていましたが、そのうち約40万人が殺され、しかもそのほとんどが非戦闘員であった。彼らの存在そのものは、歴史のページに載ることがなかったのである。彼らの迫害の歴史の中から生まれたフラメンコ音楽カンテの中のカルセレーラ(牢獄の歌):寝ござの上に腰を下ろし/頭起こして呆然と/思い出すのは我が母、我が子/今も元気でいるだろうか?(注7)
 多分、彼らは人間界を超越した存在であり、大自然の中に生きていたのであり、現在でも生存している。多くの人は、生活のために各地域で定住生活をして生計を立てているのが現在であるが、本質的な面では彼らは『自然界に漂流する民』であるにちがいないのである。彼らは自然と同じ過去を振り返らず、また未来を心配することより、現在の自然の流れと同じ現在を見つめていると推測されるのである。。そのような私の仮説に立てば、フラメンコ音楽のリズムのひとつである「アレグリーアス」の現在肯定的な,刹那的な享楽を表現した形式があるのが納得できるのでる。また第6章で言及しました「Duende」の存在も何か自然界の霊的なものではないのかと思われる。ここで『放浪の民とはないか?』というと通常『ジプシー』といわれている民族である。多分『あれか。観光でヨーロッパに行くとき、ジプシーに注意するようにといわれたあの連中か。あの泥棒・乞食か。』と思う方がいるかもしれないが、そのような輩(やから)は、ジプシー民族の一部である。しかしながら、多くの人は、何がしかの一定の仕事をしながら生活をしている人々である。
 自然を畏敬し崇めるアニミズムの人々は、別の章で述べましたケルトの民にも見出せる。ケルトの民は、古代ヨーロッパで活躍した印欧語族の一派である。紀元前3000年ごろ北方文化圏を形成し前2000年ごろから移動をはじめ次第に全ヨーロッパを支配していった。但し、前1世紀ごろローマ帝国に敗れた。社会の基盤は、農耕・牧畜が主であった。彼らには、自然の中に神々がいると信じ、例えば:全能の神(豊穣)・太陽の化身ルフ(技芸の神)・マトロナ(地母神)・ケルヌンノス(森の神)・マナ=ナーン(海の神)を信じ、また『輪廻信仰』を持っていた。仏教に似ているようですが、根本的な違いはケルトでは、死は怖いものではなく、またこの世に生まれ変われるという考え方で、他方、仏教では、死ぬとまたこの苦難の現在に戻ってきて永遠に苦しみが繰り返されるとの考えでその輪廻から解脱するには、修行・勤行をして悟り・涅槃の境地に達すれば救われるとの相違が認められる。つまり、私見として、ケルトは、現実肯定的であり、仏教は、現実否定的に思われる。ところで、ケルトは、古代では文字に記録を書くのは禁じられていたので、彼らの記録はないのであるが、キリスト教の支配後には芸術的評価の高い『ケズル書』や『ダウロ書』が歴史上に登場した。現在では、アイルランド・スコットランドは、昔のケルト圏であり、ケルトの自然を畏敬する気持ちが時間・空間を超えて存在している。ケルトの自然崇拝を漂わせているスコットランドの有名なネス湖があり、怪獣伝説で有名なところである。参考までにその湖のことは、『Loch Ness』といわれ、意味は『ネスの穴』と現地では翻訳されている。
アニミズムは、別に外国だけのものではなく、日本でも神道は、まさに自然崇拝から生まれたのである。現在でも、日本の各地の神社には、必ずといっていいほど神社を囲むように必ず「森」がある。また、本来の神社の建物にも神の姿があるのではなく、三宝があるだけで大気の空気の中に「神」そのものが存在しているのである。また、日本では大木が神木とみなされ、高い山々を神が宿る霊山として崇められている。旅をしながら、自然を深く愛した多くの旅人がいました。日本では、一遍上人・空也・松尾芭蕉、近代では、放浪の詩人と謳われた種田山頭火・高群逸枝等。彼らは、それぞれに明確な目的を持っていたが、自然の懐に分け入り彼らは芸術性の高いいろいろの作品を遺している。ここで放浪の詩人である種田山頭火の作品をひとつ取り上げてみたいと思う。『雑草風景』(注8) =ある日は人のこひしさも木の芽草の芽/人声のちかづいてくる木の芽あかるく/伸びるより咲いてゐる/葦のそよげば何となくひとを待つ/ひとりたがやせばうたふなり/花ぐもりの窓から煙突一本/ひっそり咲いて散ります/枇杷が枯れて枇杷が生えれひとりぐらし/照れば鳴いて曇れば山羊がいつぴき/空へ若竹のなやみなし/身のまはりは葦だらけみんな咲いてる/ころり寝ころべば青空/何を求める風の中ゆく/葦を咲かせてそしててふちよをあそばせて。
 話がアニミズムに偏ってしまったが『宗教(自然崇拝の信仰)による芸術の創造への流れ』を痛感するのである。別の章で述べたように『芸術の本来の姿が自然美』であると確信するのである。ジプシーたちの音楽に偏見を持たずに耳を傾けてほしいのである。ケルトの音楽を傾注してほしいのである。そして、日本画の巨匠:横山大観の絵画の中に『自然の美』を見つけ出してくれることを切望するのである。ところで、何故にキリスト教を取り上げないのかと不思議に思われるが、残念ながら、その宗教の中に「自然崇拝」の考え方、作品が見当たらないのである。この宗教は、人間中心で自然も人間の手の中にある考えで中世の絵にはその世界が描かれているのみである。本来、その宗教は砂漠から生まれたものであり、ローマ帝国時代にヨーロッパに入ったものである。勿論、自然謳歌の観点からではなく、一つの宗教芸術作品としてみた場合、歴史上すばらしいものが創造されているのは認める。教会建造物としてのイタリアのバチカン市国のサンピエトロ大聖堂、アッシジ、ロレット、パドヴァ、イベリア半島のサンディアゴ=デ=コンポステラ、フランスの聖マルタン=デュ=カニグー修道院、ルルドやリジュ、中世末期最大の巡礼地のサン=ミシェル=ド=モントンブのモン=サン=ミシェル、ベルギーのモンテギュ、ルクセンブルグのエヘテルナハなどがあり、彫刻では、聖母と東方三賢王(象牙浮彫)、フランスのコンクにある聖ソフィア教会の壁面「最後の審判」、シャルトルの教会の「訪問のマリアとエリザベート」、ドイツのシュトラスブルグにある「預言者」その他。前記に列挙した通りすばらしいキリスト教の世界の作品が数多くある。それらキリスト教の建築や絵画等の芸術作品には「自然崇拝」の作品が一つも見出せないのである。確かに、キリスト教の芸術に果たした役割は、測り知れないものがあったのは認める。
次の2人の巨人の名言を紹介する必要がある。トルストイ曰く:社会の宗教心は、まるで流れる河の方向のようなものだ。河が流れていれば、その流れていく方向がある。社会も生活していれば、その社会のすべての人が考えても考えなくてもその進んで行く方向を示す宗教心がある。だから宗教心はそれぞれの社会にいつでも出ていたし又いまでも出ている。芸術に表わされる心持はいつでもその宗教心によって価値をきめられて来た。(注1)
 また、アラン曰く:あらゆる音楽は、音楽が欲しかつもたらす純粋さ、注意、服従、沈潜、平静によって宗教的である。本来の意味における宗教音楽は、より厳しいもので、外部からの支配ということを一層問題にする。(注5)

(第7章)
 広い自然界の時間のスパンから見れば、人間の存在した期間はつかの間の期間であり、自然界から存在していなかったものとして無視されるのである。もし、我々人間が、カントの言う「宇宙律」、また私の言葉で言えば「リズム」を意識的であろうと無意識的であろうと、それを撹乱しようとしたとき、自然界の「元の自然の状態」に戻そうという、まさにInvisible Handが働くのは必定である。人間は、聖書で言うところの「知恵」を授かってしまった結果、自然の状態ではいられなくなり常に新たな部分を何世代にも渡って付け加える衝動に追い立てられてきたのである。「善的なもの」と「悪のもの」との区別がなく進歩・前進のために脇目も振らずに邁進し、それに気がついたときには、覆水盆に帰らずの喩えのようにあとの祭りになってしまうのである。それが人間の歴史では繰り返されたのであると思われる。例えば、鉄器の発明の事例で理解する必要があろう。それによって、鋤・鍬の発展をもたらし農耕生産量の飛躍的増大に結びつき、自分らの食べる以外の余剰部分が生じ売買の考えが生まれたのである。その鉄器の発明によって広い意味でのヨーロッパ中世の閉鎖的な社会構造の崩壊であり、同時に近世の幕開けの道が開かれたといっても過言ではないのではないかと思われる。しかし、他方その発明により、「石」や「木」で作られた戦争の武器がそれに取って代わり、以前よりより多くの人々を殺戮すること可能にしてしまったのである。人間の進歩への探究心は止むことを知らず、核融合の発明により輝かしい未来が見えてきたが、同時に人類を破滅へ導くことを可能にしたのである。また、我々は、過去に自分の都合主義の下に自然を破壊し続けたし、現在でも蛮行が進行しているのだ。ヨーロッパ中世は約1000年の期間といわれているが、いろいろの面では窮屈な閉鎖的な拘束された社会であり、その初期に「大自然に対する」尊敬の感情、畏敬、崇拝の気持ちが存在していたと言われているのである。ヨーロッパの多くの部分は、黒い森に覆われ人間は身を寄せ合ってその森に周囲を囲まれて生活をしていたと思われる。そのような状況の中から生まれた感情なのである。山・森・川・動植物・太陽・星々。そこには「自然と人間との共存」の考えが存在していたのである。「森の妖精物語」もそのような中から誕生したのである。しかしながら、人間の中心主義の宗教中世を支配していたキリスト教の影響の下に人間の活動範囲を広めるために次々に自然を破壊することを推し進めたのである。人間の欲求のままに自然が蹂躙され続けたのである。

(結章)
 いくつかの歴史上の事例として取り上げれば、ある文献(注9)によれば人類が文字(楔形文字で書かれた)を使用しバビロニア時代に(紀元前2000~1180年頃)書き残した最古の物語「ギルガメシュ叙事詩」によると、物語の主人公ギルガメシュ王(実在の王)は、自分の都市建設のために土器を焼く燃料のために木(材木)が必要であった。「あの森に行くと祟りがある」という人々の警告を無視してレバノンスギの森を伐採し、なおかつ半身半獣森の神・フンババを殺してしまったのである。王は、「この森を破壊し、ウルクの町を立派にすることが、人間の幸福になるのだ」と高らかに歌い上げたのであった。青銅の手斧という文明の武器の前にフンババは敗れたのである。この作者は、森を破壊した後には砂漠化が引き起こされることを知っていたことが推測される。4000年も前からメソポタミア周辺の森はすでに破壊されていた記録がある。現在では、メソポタミア地域は、広い範囲に砂漠化になり、人間が生存できる環境がごく限られてしまったのである。クレタ島のミノア文明を崩壊させた原因は、地中海の小島サントリーニ島の火山噴火と一般に言われているが、B.C.1700年ごろ大地震によるクノッソスの宮殿の崩壊の再建のために森の資源を使ったのである。その結果「森の破壊」は土壌の劣化をもたらし、何も作物が育たない土壌になり、ミノア文明の滅亡の最大の原因になったのである。現在のクノッソス周辺の山々は、ハゲ山ばかりだそうである。また、ミケーネ文明を同じような様相を呈していたのである。人間は、生きている限り、自然を破壊し続けなければならないのか?そういう性(サガ)なのかと考える。ミノア文明やミケーネ文明は地域的の局限されたものであるが、現在では、地球的規模で進んでいる現象のである。また、現在では、科学・技術の進歩により、遺伝子操作・動植物に対する人工的な操作が実践され、また生命体のレプリカの創造が試みられ、入ってはいけない領域まで踏み込んでしまったのである。人間が、このままの状態で未来へ邁進すれば、「自然のリズムの報復」が起こり、前章で言及しましたように、元の状態へ戻そうとする力が働くことを危惧しているのである。そして、自然が元へ戻すことが不可能と判断した場合、「リズムは自ら人間を含めてすべての存在を一緒に消滅させようとする作用が働くのではないか」と懸念して止まないのである。我々人間は、至上主義・傲慢さを捨て、もう一度冷静に・真剣に「大宇宙のリズム・呼吸」を見つめ、賢く行動するすることを切に望む次第である。
 結論として、私は『そのような状況で芸術には何ができるのか?』自問するのである。芸術が、我々人間を覚醒させるには、『自然』の芸術による表現・顕在化を描写し続けることなのである。
 宗教家であるが、芸術の面でも大きな影響を与え続ける人物たち:道元、空海、アッシジの聖フランチェスコ、また俳人:松尾芭蕉、『日本風景論』著者:志賀重昂、天才ピカソその他の偉人から、また現存の世界の有形・無形遺産から、きっと多くの指針を我々人間が学ぶことができると信じる次第である。特に、「日本風景論」では「足許から一握りの土をすくって、隣人の前に突き出し、この土の匂いを、どうおもふと訊ねたとき、隣人は、セメンかコンクリートでなければ文明開化の土でないと、ふだん妄信しているから、そんな土は、汚いと顔をそむける、いづくんぞ知らん、この土は、富士の白雪の融けて流れた土である、こんな美しい土が、世の中にあろうか」(注10)。その文章から、自然の美の礼賛の声が聞こえてくるのである。
 最後に、それぞれの芸術家が、社会的、否、人類の命運を担っている気概をもって艱難辛苦の道を邁進することを期待するのである。
 次の名言を忘れずに前進するのだ。
私の好きなラテン語の名言:Gutta cavat lapidem non vi sed saepe cadendo.(注11)

 日本の『古事記』曰く:草や木がそれぞれに言葉をしゃべり、国土のそこここで岩や、石や、木や、草の葉がたがいに語りあい、夜は鬼火のようなあやしい火が燃え、昼は群がる昆虫の羽音のように、いたるところでにぎやかな声がしたー。

『我が心の友』
夜の天界に吊るされている煌めく星々を見上げてください
貴方の心が悲しいとき、きっと温かい手のひらで貴方を優しく包んでくれることでしょう
貴方の心が寂しいとき、きっと貴方のそばに来て優しく声をかけてくれることでしょう
貴方の心が辛いとき、きっと優しい言葉で貴方を慰めてくれることでしょう
そして、貴方の心が楽しいとき、きっと貴方と一緒に手と手をつないで大空を飛び回ってくれることでしょう
私は、そっと星たちに告白しますー君らがこの世にいる限り、私は生きていける、ありがとう 
(著者の自作)

私は生かされている、野の草と同じである、路傍の小石とも同じである,自然は心の鏡 (日本風景画の巨匠:東山魁夷の言葉)

自然は、芸術の大先生である。ありがとう!

(脚注)
(1) トルストイ『芸術とは何か』(河野與一訳)岩波文庫、
1958年、18P.、61P.
(2)ファサード(façade)は、建築物の正面(デザイン)である。フランス語に由来し、英語の faceと同根。最も目に付く場所であり、重要視される。
(3)タンパンティンパヌム(tympanum, (複)tympana、(仏語読み)タンパン)とは、建物入口上にあり、まぐさ(横木、リンテル)とアーチによって区画された装飾的な壁面のことで、半円形か三角形をしている。しばしば彫刻などによって飾られている。ギリシャ・キリスト教建築においては、ティンパヌムには宗教的情景が描かれているのが通例である。
(4)。クーポライタリアの教会堂のドームに対しては、イタリア語のクーポラ(cupola)という呼び方が用いられることがある
(5)アラン「諸芸術の体系」(桑原武夫訳)岩波書店、1978年、171p.
(6)相沢 久「ジプシー」(漂泊の魂)講談社現代新書、昭和55年、172p.
(7)パセオ編集部(飯野昭夫)「フラメンコへの誘い」晶文社、1989年、91p.
(8)種田山頭火『雑草風景』H/Pから引用
(9)安田喜憲「森と文明の物語」(環境考古学は語る)ちくま新書、16~17p.
(10)志賀重昂『日本風景論』岩波文庫、8p.
(11)(ラテン語の日本語訳)水滴は、岩に力によってではなく、何度も落ちること
    によってあけることができるのである。

<参考文献>
スタニスラフスキー(千田是也訳)「俳優の仕事」(第一巻~第四巻)理論社
トルストイ「芸術とは何か」岩波文庫
アラン(桑原武夫訳)「諸芸術の体系」岩波書店
志賀重昂「日本風景論」岩波文庫
安田喜憲「森と文明の物語」(環境考古学は語る)ちくま新書
「古事記」(倉野憲司校注)岩波文庫

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