My Photo
無料ブログはココログ

項目一覧


  • (1)おすすめサイト  *岩崎秀夫のギタースクール *私の講演テーマ(2)文化・芸術  *我が旅考察論 *我が演劇論::序論 *我が芸術論:序論 *我が芸術論:本論(更新中)(3)芸能・アイドル  *私の人生行路 *俳優:岩崎秀夫の掲載媒体(更新中) *私の記憶にある出演歴(更新中)(4)日記・コラム・つぶやき  *INVESTIGATION(研究課題)(更新中) *評判をいただいた自作のシナリオ集(代表作) *私のファンの方々へのお詫び状 *私の感じたままに(更新中) *国際派俳優:岩崎秀夫の軌跡

俳優:岩崎秀夫の素顔

  • 著名な政治アナリストである伊藤惇夫氏と私。
    私の好きなスケッチです。

« March 2013 | Main | October 2013 »

June 2013

Tuesday, 11 June 2013

日本の国会図書館への書蔵研究論文「我が芸術論:本論(Part-1)演劇論」-2013年度高崎商科大学「紀要」論文採用決定稿

                       「我が芸術論:本論(Part-1)演劇論」

 Culture is the mirror to project each time in the variety of culture forms. The drama expresses “Performance” in the variety of the works of both the stage and TV or cinemas through the Contemporary cultural filter. That is, the old works can be reborn as the new ones owning to the contemporary cultural breath. The newly ‘culture creation’ can be produced through such a process. The attribute of the culture in itself is seeking for ‘the true reason’ and is demanding ‘transformation’ beyond the times. The contemporary societies give birth to ‘the culturein other words. Paradoxically, the culture sets up the society and produces the history.
 We can’t help but recognize the unfathomable culture power.
 Therefore, the real drama posture is the culture movement; it influences on not only physical side but mental one of the audience to change the new notions
from their own present philosophical, ideological and literary inclination.
 The drama last aim is to transform the audience into new human after seeing the drama.
 The drama has the great potentiality and, therefore, continues to exist forever.
[
キーワード:想像力、幽玄、沈黙、不動心、無心(無邪気)]

(序文)
 
『風姿花伝』曰く:花と申すも、去年(こぞ)咲きし種なり。能も、もと見し風体なれども、物数を極めぬれば、その数を尽くす程久しし。久しくて見れば、また珍しきなり』。(注1)
文化は、いろいろな形でそれぞれの時代を映す鏡である。文化の中の一部分である演劇について言及すると、演劇は『演ずる』という手段を持って現代という時代の文化フィルターを通じていろいろな作品を舞台や各種映像で表現することである。例えば、過去の作品でも現在の文化の呼吸を吹き込むことによって過去の作品としてとどまるのではなく、まったく新しい姿として生まれ変わる。そのようなプロセスを通じて新たな「文化創造」につながる。文化というものは、どんな時代でも、『真実又は真理の姿』を求め、『常に変貌』を要求するものなのである。別な見方をすれば、その時々の社会が「文化」を産み落としたのであるが、逆説的な言い方では、『文化』がその社会を構築し、歴史を作り上げたともいえると思われる。そこに、『文化』の測り知れないパワーを痛感する。また、真の演劇の姿は、自らの持つ哲学的思想的文学的の諸要素の性向を新しい演技性に置き換えて、観客に肉体的・精神的に影響を与える「文化運動」と言えるのである。それぞれの作品を鑑賞することによって観客を変貌させることこそ、演劇の究極の目的であり、またそれゆえに変えうるだけの演劇という世界が計り知れない力を持っているし、また力強いパワーを持ち続けなければならないと思うのである。

(第1章)                                                            本論では、『俳優とは何ぞや?』の問題から考えたいのである。本論では千田是也の
『演劇入門』(注2)の本を中心に論を進める。先達者曰く、『俳優の仕事は、台本には、音色・高低・強弱・速度・休止などーについての指定はほとんどない。せりふやト書から、自分の役の性格、他の役との関係、その内的・外的行動の「途切れぬ線」、脚本全体の意図(「超課題」)、その中での自分の位置や役割を読み取り、それを自分の体験や知識や想像力で補って、生き生きとした役のイメージを作り上げ、形にあらわすことです。』(注2)と名言を残している。この論では俳優の技術な面が強調されているきらいがあるので、本来のもっと重要で深遠である『体験と想像力について』特に言及したいと思うのである。演出家や監督がよく『役者はいろいろな体験をしなければ、その役柄に迫れない』とよく言われるが、役者がすべての時間的・空間的次元を網羅してあらゆる職業の経験を要求されるならば、誰も役者の資格がないと謂わなければならない。
 人間の寿命は平均して70~80歳ぐらいであり(最近の調査では、人間が病気や交通事故に遭わなければ120歳までは生存すると言われている)、また時間的・空間的に限られた現在という世界で生きている。自分が『現在の次元』で体験したもので演技するしかないのである。現在というフィルターを通じて自分なりの演技を遂行しなければならない限界がある。但し、限られた『体験』を只演技に投入すればそれでよいという単純なものではない。日本の代表的な演出家である水品春樹氏が謂っているように『それ(体験)を生かし作品の創造性を助けるのが想像である』
(注3)。同氏によると、体験は、ただ自分の実体験だけではなく、読書や見聞の経験も含まれている。同氏は想像について言葉を続けます『芸術表現に大切な想像やイメージを作り出すその源は、表現者の体験・心的経験による知識上感覚上の記憶力であり、この働きが強いほどそれによりイメージがより浮かび(正確な演技想像への足がかり)が得られる、また体験・知識を蓄積することによって(感受性)が磨かれる(注3)明言している。
 私は、純粋無垢な子供たちからよく教えられる。つまり、子供たちの遊戯の中に何か演技の原点の一端を感じるのである。例えば、そこに大きな石があれば、それは子供たちの魔法によって台所の食卓テーブルに変身し、汚く薄暗い路地は、魔物が住みつく洞穴に、雑草は、魔法の絨毯に変わる。子供が、空に向かって人差し指を指示せば、空には星の存在を感じ、また、雨上がりの地面の窪みに水たまりがあれば、子供たちによって池ないし大海に変貌する。つまり、彼らの脳裏に描かれたものは、わずかな経験(テレビで見たもの、絵で見たもの、実際に見たもの)であるが、自分らの感受性のフィルターを通じて表現されたものである。子供の感受性は、成人に比べてはるかに深く繊細なものである。また、
感受性に影響を与える心像(記憶力)も大人に比べて優れているのである。
 そして、舞台の背景や道具が、子供たちの想像のイメージによって創り出され、その舞台で自分らの役割が決まり演技が展開される。確かにその演技は、稚拙で、演技にとって大切な要素である第三者である観客から見ればその子供の表現していることは全く伝わってこない、つまり観客の脳の中でイメージが沸き起こってこないのである。言い換えれば、鑑賞する人を意識した演技ではない。しかしながら、子供たちの小さな子どもの周辺の風景を目にしたものが彼らの脳裏で「想像の世界」が開花する点は、演ずるという点では大いに学ぶことがあろうと思われる。
 その点については、偉大な芸術家であるK.スタニスラフスキーも明言している:『一ダースの子供たちをここへ連れて来てみたまえ―そして私が、これは君たちの新しいお家だと言ったとしよう。君たちは彼らの想像力にびっくりするだろう。一度遊戯の中へ入りこんだら、彼らは決してやめるなんてことはしない。君たちも子供みたいにならなければいけないのだ!』(注4)
 私自身も日ごろ稽古場で『想像の世界の開発』のための仕方を実践していることを幾つか紹介したいと思う。
 それを述べる前に、第一日目の稽古場でまず感じることは、受講生自身の持参した身の周りのカバンや稽古着に着替えた時の衣類等が散乱していることが散見され、彼らが全くそれに気がつかず、ただ稽古をする自分しか見えないことである。稽古場の空気というかその全体を見る眼力が欠如しているように思われる。そして、緊張・配慮が彼らの心にはないようで、稽古をする姿勢が見受けられない。
私がそれを指摘すると、彼らは初めてその点に気づく次第である。自分のいる場所と全体の雰囲気を即座に把握することが役者の本来の姿勢なのである。舞台では、舞台道具(背景を含む)全体の中での自分の存在を調和させることが必要なのである。自分以外の存在の把握を感じないで演技をするだけでは、まったく愚行であり素人の演技である。まさに、一人演技であり滑稽そのものである。一人芝居とは、全くかけ離れたものである。一人芝居は、その舞台と一体になった時の本当の演技である。それゆえに受講生にはそれを理解していただきたいので、厳しく叱責するのである。
 次に、本来の演技の想像力開発の事例として、私が、その稽古場で特に力説したいことは、役者は、身体の各パーツの動作表現の「総合芸術」あり、つまり体全体で表現することである。
受講生には、演技の基本的練習、つまり早口言葉、パントマイム、朗読等の演技の基本訓練は極力させないようにしている。そのような訓練は、ほとんどの劇団養成所で実行していることであり、稽古場ですることの意味がないのである。むしろ、私の考えでは、それらの練習は自分でできることなのである。
 
私が、常日頃、役者志望の受講生に以下の各項目の訓練を稽古場で実践するよう努めてさせている。全体の稽古を通じての留意点は、『想像力を全身で発揮する認識』、『自分の行動範囲の限界点の認識』。つまり、自分のメンタル面での行動範囲を肉体で認識すること。それを逸脱した時、いわゆる『臭い演技』に陥ってしまうのである。
(1)集中力の訓練:一点集中訓練
(事例1)棚から大きく大変重量のある荷物を床に下ろす練習
 *ポイント:この時には、稽古場には実際には「棚」も「荷物」にないのに、他の受講生(観客)の面前で役者は「想像の力」を借りて目の前で存在しているかのように体全体で表現しなければなりません。それらふたつの対象物に最大の集中することが要求される練習。また、観客である参加者を意識しながらの集中力を高める訓練にもなる。それは、舞台で精神的に緊張しないようにする効果があると同時に本来の役に適合した自然の動きができる効用がある。但し、この稽古で忘れてはならないのは、全てを自己集中しすぎてぎこちない動きならないよう自分でコントロールする配慮が必要である。
(事例2)コーヒーを飲む練習
ステップ:茶碗を見る→茶碗の取っ手に指をかける→茶碗の中を見る→飲みの物の温度を感じ取る→茶碗を唇に触れるときの感じは?→茶碗を口に向けてゆっくりと傾ける→飲み物を飲んだ時の反応→飲み物を飲んだあと
 *ポイント:この物体感覚の稽古を通じて、心身のコントロールの方法と意識の行動範囲の限界点の認識を習得することができる。
(2)キャラクターのための練習:いろいろな性格づくり(例:詩人・医者・変質者・ホームレス・大学教授・音楽家等)
 この訓練には、「状況の設定」を準備することである。
よく使う状況場面は、「いろいろなキャラクターを持った人物が登場して、公園のベンチに座り、しばらくして(間)立ちあがり去る」ことである。
 *ポイント:この稽古の目的は、各人物のキャラクターのイメージを浮かべて、内面からそのイメージを作り上げて、それを行動表現に結びつけること。この訓練は、自分の今まで見聞した経験を脳裏で浮かべてそれを具現化し表出しなければばらない。つまり、それをするには普段から自分の周りの人物観察が絶対的に必要であり、その時に観察したことをいわゆる『観察ノート』に書き留めておくことである。なぜならば、人間の記憶はいい加減なものであり、すぐに忘却の彼方へ行ってしまうからある。
 『観察ノート』の重要性を強調するために少し詳細に述べますと、水品春樹の名著である『演技入門』では、
『ただノートブックに何かを記すことだけが終局の目的ではなく、選びだした対象に対して思ったこと感じたことを自分の心や身体にしっかり刻みつけ、記憶として残しておくために行われるものです。(中略)新しい知識や新しい体験によって、記憶しておいてよいものを積み重ねて行く。(中略)観察はまず興味から始まるものです。(中略)そこに何かを発見し、心を動かし、それについて深く理解し正しく判断したうえ、取るべきものを取り、捨てるべきものを捨てて記すようにするのがよいのです。(注3)と深い洞察の記述がある。つまり、時と場所によって使い分けができるいろいろな『箱』を持つことである。
 また、役者を目指すには「いろいろな自己体験」をするのも想像力の開発には必要な訓練である。つまり、どこまでその人物を想像の世界で作り上げられるかということである。
(3)顔の表現訓練
(例:顔面神経・顔面筋肉・眼・瞼・まつ毛・眉毛・口・唇・歯・舌・鼻)
 体の一部分であり、最も表現力が顕在化する「顔の部分」の表情作りの練習(内的な感情と自分で作り上げる世界の表出との連結の練習)。
ポイント:心の中の様子は、顔の表情に表れると言われているので、内的な感情を想像の世界で作り、それを表出するまでのプロセスに重点を置いている。つまり、表出完了ではなく、その完了に至るまでの過程を確認することである。その術(すべ)を習得するとすぐに変貌することができるのである。
(4)不可能表現訓練(イマジネーション訓練)
 一流の役者は、何も道具がなくても、また舞台の背景がなくとも自分の手・各指や足の動きで「風」「川」「山」等を作り出し、観客にそれらが舞台にあるように作り出すことができるのである。その訓練として「石」「山」「蛇」等の素材を使って、受講生のイメージを膨らませて表現。
ポイント:自分の想像力の挑戦、想像力の最大の具現化の可能性を目指す。
(5)仮想対象に対する一人芝居(気持ちを動作の融合)
 この稽古では、気持ちと動作とが、自然にバランスよく同時に表出できるようにする。
使用道具は、椅子1台とテーブル1台のみ使用。
(事例1)知り合いのところへ電話をする。番号違いで相手から突っけんどんにされ、不愉快になり電話を置く。
 *ポイントは、気持ちと動作が融合されているか?
(事例2)朝の食事。2つのパターンを使い分ける。
(パターン1)椅子に腰かけテーブルに向い洋食をナイフ・フォーク等を使って食べる。
(パターン2)        〃     和食を箸・お茶碗等を使って食べる。
 *ポイント:2つのパターンを使い分けして、演技ができるか?それぞれの気持ちと動作の切り替えの可能を目指す。
(6)無対象動作の練習:仮想相手がわかる動作表現の試み(台本なし)
冒頭の千田是也の言葉「他の役との関係」の具体的な事例。
(事例1)歩いているところを後ろから肩をたたかれ振り向いてびっくりする。
 ポイント:びっくりする表現ができるか?突然の外的な要因に対して気持ちの切り替えの可能性を目指す。
(事例2)出発して行く汽車の窓の恋人を見送る。
 ポイント:悲しみが表現できるか?
(7)しぐさの実習
(
事例1) *自分のポケットにていれているときの手の動作とその時の当人の心の感情の動き。
 以上の練習は、パントマイムとは根本的に違う。つまり、芸術を追求する役者は、『模倣の超現実主義的な試み』のパントマイムではなく、人生経験の蓄積や自分自身の情念を源泉としなければならない。
 それに関連して、私が日頃危惧していることは、多くの役者は、その登場人物に少しでもなりきろうと、先ほどから論述している自分の経験・体験に加えてその人物に関する資料・書籍等を勉強するが、その役者さんの存在は、言い換えれば『個性』はどこにあるのでしょうか?個性の喪失。役者は、演出家や監督のマリオネット(傀儡人形)ではありません。あくまでも『新たな創造性を創り上げる芸術家』である。それぞれの役者の体験・価値観・環境・物事に対する感受性・自分が存在している現在の時点などを通じてその人物になりきるところに個性が生かされ、また同じ人物でもその登場人物の画一的な見方とは違ったものができ、その人物に新たな生命が吹き込まれ観客に感動を呼び起こす。そこに演技の面白さ,変幻自在な姿を発見する。そうでなければ、「役者」があまりにも悲しく、虚無の念に駆られるのである。まさに演劇界、または広く芸術界では天才または狂人として知られているフランスのアルト-は、役者の個性について、むしろ、役者とは何かということについて、「役者は、肉体的な体操選手と同じであるが、感性的器官を備えた感性の体操の選手である。」(注5)と述べている。役者とは、どんな役柄が監督から要求されてもそれに応えられるだけの日ごろからの肉体的鍛練していなければならないが、それと同時に感性を育んでいなければならないと指摘している。それには、自分の目から入ってくる外的な諸現象を感性の領域で享受し、それを分析して自分のものにするだけの度量を備えていなければならないのである。
 私が特に驚愕したのは、彼が『演劇とペスト』の章を設けていることである。ペストと演劇との関連性はあるのか?アルト―曰く「なりより大切なことは、演劇がペストと同じように、一つの狂気であり、それが伝染性だということ。(中略)ベストの同様に、演劇は、あるものと、ないものとの間を、可能性の力と、物理化された自然の中に存在するものとの間を、ふたたび鎖で結び付ける。」。アルト―のペストと演劇との関連性は、どちらも激しいエネルギーを発散し、社会のすべてを変革するほどの激しさの存在であると解釈するのである。演劇が伝染病とはまさに的を得た指摘である。演劇には、何か痕を牽く魔力ような得体のしれない何かが存在するのである。演技者の周りのみならず観客もオブラートのような膜に包まれるのである。つまり、演技者と観客とを別世界に誘うだけの力があるのである。
 また、アルト―は、ペストを悪の根源として忘却の彼方へ葬り去るのではなく、それが文化を開花させたとするパラドックス的な立場からの視点でとらえ、同じ考えを持つ蔵持不三也の名言を紹介する。彼曰く:「ペストは文化を作ってもきた。都市の歴史的なランドマークとしての建造物を出現させ、アイデンティティ・シンボルとしての祝祭を演出し、文学や絵画にたとえば死の確実さと生の虚しさという重要なモチーフを与え、汚水と汚物処理を合理化するための都市化を促した。都市間の情報ネットワークを強化し、検疫と隔離システム、更に公衆衛生とからなる近代の予防医学をも生み出した。(中略)つまり、ペストが想像力をどのようにして刺激し、活性化したか?(中略)自然=獣性の側から人間社会に侵入して文化を破壊しようとする力を、文化創造に力へ転位させる。」つまり、人間の無限のパワーをこの文章から痛感するのである。われわれ人間は、『想像力』を先天的に習得している。(注6)また、演劇もペスト同じく「新たな文化創造」を作り上げるのに一役買っていると断言できるのである。
 では、「個性」とは何かをもう少し掘り下げて考察する。
 水品春樹曰く『演技芸術家となるためには、それの根本土台となる自己の人間性を怠ってはなりません。しかしこれは、その人の教養の程度、環境からの影響、天性によって人それぞれ違います。(中略)一人々々が持ついかにもその人らしいもの、これが「個性」です。(中略)芸術の道を歩む者にとって一番大切なのは、この「個性」である。』(注3)
個性ついて私が日頃考えていることは、個性は先天的なもの・後天的に育てられたもの、つまり自分の周りの環境から受ける自分の感受性面の受ける浸透性の度合いとそれらの情報を選択する能力から受けて育てられたものである。そして、外部へ自分の心像のフィルターを通じて放出するものである。その「個性」は、人間がそれぞれ持っているのである。特に芸術家は、特に個性を深く自覚することである。音楽・絵画・彫刻・演劇等すべてのアーチィストは、自分の心像のフィルターを通じて放出=表現することが不可欠なのである。 

 

(第2章)
  次に、『途切れぬ線とは何か』(注7)の考察をしたいと思う。ここで世界的な演劇界の巨匠スタニスラフスキーを取り上げますと、彼は、『あらゆる芸術において、一本の途切れぬ線がなければならないということがわかるだろうか?線が、一つの全体となるときに、創造活動が始まる。諸君の内的な力をみんな使って、一本の途切れぬ線を作り出しなさい。』(注7)と言っているように、俳優は、舞台では、ある役が俳優に与えられた場合、その間は『内的な一本の線』(注7)を持ち、また同時に他の俳優の内蔵している一本の線とを結びつけ舞台全体に目の見えない透明な「クモの巣」を作り上げなければならない。素人の俳優と本物の俳優との違いは、それが自覚されるかどうかで判断できる。別に俳優に限ったことではなく芸術といわれるすべての分野でもそのことが云えると思われる。例えば、音楽演奏家にしても曲目全体の一本の線を持たなければ、演奏する上での創造性やその演奏者の独創性が内部から構築されないし、また鑑賞する人々に感動を与えることは決してありません。つまり、芸術の全体像とはならない。『もしも、内部の線が途切れると、演ずる人は、何の欲望も情緒も持たなくなるのです。その線が中断すれば、生活も止まる。』(注7)
 但し、これらの芸術作品は、動的な芸術作品の場合で、本来の芸術作品は『動的なもの』と『静止のもの』とがあるのは明白である。静止の芸術作品の事例としては、絵画・彫刻・陶器等である。
少し角度を変えて、自分の経験から少し述べさせていただくならば、よく将来俳優になりたい希望の生徒たちを指導しているとき感じるのは、短い寸劇のなかで無対象動作を利用して自分の部屋の高い棚からダンボ-ルを下ろす練習をさせると、最後まで「一本の線」が持続しなく手から無意識に離してしまう。このわずかな時間でさえも集中力が持続することができないのである。そのような状況では、決して想像的・創造的なものは生まれないのである。一本の線は、人間にクリエイティブな能力作り上げてくれるのである。
 ここで、一つのテーマが私の心に浮ぶ。つまり、創造イコール感動から『観客(客体)に感動を与える』とはどういうことでしょうか?どんなに俳優が躍起になって人に感動を呼び起こそうと頑張ってもそれの演技を見る観客サイドに内的な想像性、期待感や過去の経験がなければ、何にも起こらないし、また役者と観客との心のハーモニーが生まれない。
よく浅薄な俳優は、自分の置かれた役柄と演技だけを切磋琢磨するが、それは片手落ち以外の何者でもありません。繰り返しになりますが、役者と観客との一体感が生まれないのである。訓練では、観客の仮の存在の意識を感じながら、また客の呼吸を意識して行うべきである。その相乗効果を忘れてはならない。つまり『総合コミュミケーション』の実現に全神経を砕くべきです。さもないと、演技者の一人舞台になり、悪い場合は、自己陶酔に陥ってしまう。特に、俳優は、自己陶酔型が多く見受けられますので、くれぐれも慎重にならなければいけない。わかりやすいケースとして、子供たちの前で、『ハムレット』を一生懸命俳優が演じた場合、期待すべき効果が得られるでしょうか?それは不可能であり、また子どもたちにそれを期待して演じているのではないのです。つまり、子どもたちには、ハムレットのことを外部から習得していない。
 その子供の演技について何が欠けているかを千田是也氏は、次のような文章で指摘しているのである。つまり、『俳優の芸術は決して一人ではできない。俳優は、ある場面での人と人、人と物、人とその置かれた場面のと関係を読み分ける(場面の感覚)を身につけなければならない。』(注2)と説いている。幸いなことに、人間は、長い期間、集団生活をすることによって、『俳優の身振り・仕草』ある程度の共通の理解力・先行的期待感を先天的に持っているので、ある線の感動を理解するだろう。しかしながら、俳優は、それに期待することなく、『全体の蜘蛛の糸のネット』をいつも内的に張り巡らせる努力を惜しんではならない。つまり、それらの期待できる仕草や身振ふりにしろ、いろいろの役柄では、そんなに単純なものではなく、もっと複雑なものであり、演技の最大限の琢磨を要求される。俳優と観客の『交流』、スタニスラフスキーの言葉を借りると『交通』(注7)という言葉に凝縮されるのではないかと思われる。     

 

(第3章)
次に、千田是也氏の『演技の三つの型』(注2)について考察します。先達者曰く、俳優と役との関係から、演技には、『代理、形成、表示』という三つの型がある。
 これら三つのパターンが生まれるには、特別な歴史的、また社会的な理由があるとのこと。最初に『代理』について取り上げると、宗教的な祭りで演じられる人物たちでそこで演じられるのは、伝統的・伝説的な人物たちである。それゆえに、空間的・時間的に限定さているので、それに参加している観覧者たちは、演じる人物がまったくの素人芸であっても、『あの人物を演じているのだなあ』と想像できる。例えば、世界中のお祭りでは、すべてが同一化できる。その原型を思い浮かべて同一化できる。但し、この場合、長い年月受けつがれたものであり、当時の服装や動作に忠実に再現できるように神経を使わなければならない。ただ、双方とも『魔法の輪』にいるので演技者と観客に間には、同化はあっても分化は見られないのです。千田先生は、この次元では『芸術』とはいわないと明言している。次に、『形成』に話を進めると役を作り上げるための全身全霊を総動員して物まね・仕草・身振・台詞で『イリュージョン(幻影)』を喚起する必要があると言及している。この場合、『演じて見せる』という役者の働きだけは、役の後ろに隠さなければならない。この時点で、俳優術は芸術の世界への仲間入りできたと言えるのである。最後に『表示』については、役者と観客は、別の人間である。役になりきろうとは考えず、『役を表示』するのみである。あとは、観客にその演技の批判や選択に任せるものである。
 以上、千田先生の演技の三つの型を要点だけを紹介しましたが、この中で『形成』について一言申し上げたいのは、『形成は芸術の世界へ仲間入りできた』(注2)と言っているが、『代理」も芸術の世界に入ると思われる。なぜならば、千田先生は、神とか超人間とかの演ずることは『代理』であるが、
『代理』であるからその世界には入らないと言っていますが、奈良時代に中国から入ってきた『散楽』が、日本化して平安時代に猿楽となり鎌倉時代を通じて「悲劇的」な歌舞劇である「能」は、約600年の歴史を持っていますが、それは、まさに芸術の極致であり、芸術の世界に入ると思われる。ご存知のように、主人公のほとんどは「幽霊」であり、人間の本質や情念を演じ、「幽玄」を追求したすばらしい芸術であります。
 観阿弥の子、世阿弥は、「演技」について彼の著書である「風姿花伝」(注8)で「役に扮する演技には、あえて似せようとはしない段階があるはずである。役に扮しきって、本当にそのものに成り入ってしまへば、そのときの心には、もはや似せようといふ思ひがあるはずはない。道を極めた名優が心がけるのは、(省略)何気なく舞って出たといふ風情を見せることである。」(注8)と述べている。この文章で「演技の、否、俳優の役に対する真髄」を明確化している。但し、「役に扮しきって」とは、それ相応の努力をしなければならないと謂っているが、私が、世阿弥の考え方で矛盾というか理解に苦しむのは、「花伝書」(注8)では、「あえてなにもせぬところが面白い」と述べ、また言葉を続けている。「舞と歌の二芸や仕草・役柄の演技は、身体で演じる技芸である。「何もせぬところ」とは、技芸の間隙であり、そこが面白いのである。」(注8)。つまり、肉体の動くと心の動きが、バランスよく繋がった時に本当の演技の姿が見えてくるようなことを示していると想像する。言い換えれば、「静」であるメンタル面と「動」である肉体面とのリズムがあってはじめて最高な演技の姿ができるのである。
 私が感じるのは、話が私の専門分野のひとつである「ギター音楽」との関連で少し述べると、ギター音楽の中でも特に、フラメンコ音楽は、演奏の間隙を大変大切にしている。その間隙効果によって一層すばらしい効果が出る。ある意味で、「沈黙」効果とも関係があるように思われる。マックス=ピカートの「沈黙の世界」(注9)では、演劇におけるドイツ語でのSchweigenについて「言葉は沈黙から、沈黙の充溢から生じる」(注9)と名言を残している。
 
この間隙について、別の視点から日本画の西松凌波(内海久子)(注10)を紹介すると、彼女は、画家であるが彼女の絵は、没骨法(もっこくほう)という技法で描くのである。中国の唐の時代からの画法であり墨の線で下書きなしで一気の書き上げるのである。一発勝負の世界である。それだけ超集中力が要求されるのである。彼女の考える「隙間」の文章を少し長くなるが紹介しよう。
 「私は特に、余白の美を重視している。『描かないでことで、描く』という美意識である。表現空間と余白とで画面全体に統一感がでてくるのだ。それは、私自身が、大気の中にいるように、 画面の中でトータルな状態として呼吸し、同化できるとき達成されることなのである。仮に、柿を描いたとしよう。柿を描いて、余りの空間が余白になったのではなくて、柿を描くことで、同時にその余白をも描いたものである。余白空間は、はじめから存在しており、それは柿という表現空間と等価値である。余白は、余韻につながる重要な空間配置であると考える」(注10)。つまり、余白と考えられているものは、実は、すでに絵の一部として最初から存在しているのであり、絵を描き始めると同時に余白の絵が浮き出てくると言われている。余白(隙間)の効果音が存在するのである。私は、隙間は、実は表面に描かれてないのであるが、心の動きの部分を鑑賞者の想像力にゆだねられて言うこともできると思われる。作者は、故意に隙間を作ったと言っているが、何か芸術の鑑賞は、鑑賞者の完成に解釈に任せられて、その点で十人十色の解釈でよいのではないかと思われる。そこに芸術鑑賞の楽しみがある。次に、隙間の想像力について、筒井康隆氏の文章を紹介する。
 隙間の語句を、小説家:筒井康隆では『空白』という言葉で置き換えられているが、意味は同様なもので、彼曰く『(この『空白』こそ)読者が想像力を働かせるべき場所だと言っているの。想像力をどのように働かせてどうするのかっていうと、その空白こそが文学作品の、空所以外の部分のいろいろな断片を結びつける場所だって言うの。』(注10)つまり、地面の枠内にタイルの薄片を並べるそれらの薄片の隙間が、まさに全体の文様に効果を引き立てていることである。 

 

(第4章)
また、ベルギーの劇作家、詩人、思想家であったモーリス=メーテルリンク によると、「もしも私がほんとうにその人を愛しているなら、私が言った言葉のあとの沈黙が、私の言葉にどれだけ深い根があるかをその人に解らせるだろう。そしてその人の心に、それもまた無言である確信を生むだろう」と。私は、科白だけが観客にわかってもらえれば、それで事が足りたと思うことは、あまりに軽薄で、本来の演技の真髄は、行間にある「なに」かを伝えられるとき「芸術の創造性の何ものか」を感じるのである。アーティストを志すならば、その点を決して忘れてはならない。気持ちを言葉だけで相手に伝える演劇は、どんなジャンルでも無意味なのである。但し、間の取り方は、どのくらいの間隔であるべきなのかは、大変難しいことである。前の台詞と次のそれとの間は、それを話す役者の感情が自然体であれば、自ずとできることである。計算され、また意識的に隙間を考えると不自然になり、まったく滑稽な語りに陥ってしまうのである。世阿弥曰く:「せぬひま」。舞を舞いやんだ空白、音曲を謡いやんだ空白に、心の緊張を維持する。その形に現れた技と技の中間にある、目には見えぬ緊張の実在感が舞台に匂いでて、観客を面白しと実感させるのだと言う。能を貫いて流れる理念では常にこれである。(注10)まさに、緊張感の空間を観客と共有することによって、役者と同時に観客との心の一心同体感(調和)が生まれるのである。また、間を投入することによって心の効果音が双方に増すのである。それは、私に言わせれば、暗闇の世界であり、また無限の深淵の世界であり、ミステリアスのフォースを放す存在である。言葉には、隙間が必要であり、逆に隙間がない言葉は、言葉ではないといえるのである。まさに、ブラックホールである。人間の心臓の鼓動とある意味では、似ているところがある。つまり、強弱のわずかな隙間がなければリズムを刻まないのであり、また心臓の動きは止まってしまうのである。次の飛躍のためには、必要不可欠なものある。
 水品春樹曰く:表現の中で、『間』ほど難しいものはないと言われるくらい、(中略)『間』の取り方一つでその言葉は生きもし死にもするのである。(中略)言葉が『動』であり、「陽」であるのに対して『間』は『静』あり『陰』である。(注3)。つまりは、仁王の阿吽の呼吸であろう。
悉曇(シッタン)(インドの古い言葉)の五十音の始めと終わりの文字であり、『阿』は、生命の誕生を、『吽』は、人生の終末の意味あり、人生の一連の流れを暗に示唆している言葉である。但し、この語句は、本来仏教の言葉であり、それの意味することは、全ての源から発して、いわゆる『発菩提心』であり、最終的には、『悟り』に至ることである。
 また、本来人間は、話す自分と聞く相手の間には「呼吸のリズム」のような何かが存在する。それは、言葉では表現できないことである。時々、日常でも言われる言葉に、「あいつよくしゃべるなあ、なにをいっているかわからないよ」という文句がよく聞かれますが、その点を物語っているのである。それはまさに、双方のリズムが合わないのである。言葉の連射は、ただ聞く相手に理解を難しくさせるだけではなく、嫌悪感も相手に植えつける結果になってしまう。また、「愛の囁き」には、愛の告白とともに間隙も必要なのである。結局は、人間での感情表現に間隙の要素が必要不可欠である。つまり、呼吸のリズムです。但し、ここで忘れてはならないことは、「間隙」とともに「仕草」が伴うとより相手にわからせることができる。つまり、「非言語の世界」の助けを借りることである。但し、「間隙」を度を越して多用すると多弁と同じに不機嫌の感情が生まれます。「間隙」と「仕草」を上手に調和させること。「しぐさ」について、千田是也曰く『俳優の芸術は決して一人ではできない、他の人々(その他の俳優たち・作家・演出家)と一体になって成り立ち、また見物人たちも俳優の身振り・言葉の形からその意味を読み取り感じると同時にいろいろの関係(人と人、人と物、人とそのおかれた場面との関係)を読み分ける感じ取る感覚を身につけていなければならない』(注2)と。
 ところで、私が常日頃考えていることであるが、全般的に日本の演劇が国際的に何故に頻繁に上演されないかと考える。その原因がどこにあるのか?日本という特殊な国では、ほとんどが同じ種族の単一民族であるので、見物人もある程度の役者の動作の「間隙(沈黙)・仕草」からある程度、そのときそのときの役者の感情と同化しやすく理解が容易であると思われる。喜怒哀楽の同一性が双方に認められるのである。つまり、エドワード・ホールが指摘しているように日本社会は、単一民族国家であり、『High Context』の社会であり、お互いの情報を共有している。ところが、海外(米国)では、複合社会であり、ホールの『Low Context』の社会であり、お互いの情報が共有されていないのである。つまり、自分の気持ちを言葉にしないと相手の人が理解できないのである。つまり、日本社会は、お互いに自分の意見を改めて口で表現しなくてもある程度理解が容易な社会である。それ故にその単一民族の考えを外国でそのまま持ち込んで海外で生活すれば、当然いろいろの場面でカルチャーの衝突が起こる可能性が充分であり、舞台演劇や映像演劇も同じであり、特に舞台上で演じれば大いに支障が生じて、最悪の場合、嫌悪感を抱いてしまうことになりかねないかと懸念する。但し、映像でなある程度の編集が可能であり外国向けようにすることも可能である。反対に、外国(例えば、米国)の演劇が日本社会に違和感なく受け入れられる理由は、外国の情報が日本人に無意識にマス・メディア等を通じて、すでに習得されているからである。もっと本質的に考察すると、『何か日本人の外国に対する憧れ』から起因していることが考えられるのである。いずれにしても、広義の意味で外国で日本社会、特に日本人についてもっと紹介すべきである。
 
では、日本の演劇が海外で受け入れられるのが難しい理由として、別の視点から分析すると、日本人と外国人との「非言語の世界の研究」が日本の演劇界ではほとんどされていないのが問題なのである。その分野の専門家であるバードウィステルの研究によれば、対人コミュニケーションで言葉が占める割合は、30%ぐらいで、残りは、非言語の割合で70%ぐらいである。いかに非言語の世界の研究の重要性が理解できるのである。
 では、非言語とは何か?ここで少し専門的なことになるが、一般的には非言語メッセージは、(1)顔の表情、身振り、手振り→身体動作(2)相手との距離や空間と使い方→近接空間(3)時間の使い方に関する時間概念(4)外見や服装などの体物表現(5)抱擁や体への触れ合いなどの身体接触(6)声の質や出し方など声の使い方に関するパラ言語等に分類されるのである。P.エクマンとW.V.フリーセンがより詳細に区別している。つまり、(1)表象(2)例示動作(3)感情表出(4)レギュレーター(5)適応動作等である。(注11)
 私が、特に注目しているのは(2)であり、つまりなにかを描写するために用いられるものであり、文化によって違った意味を持つと言われている。例えば、アラビアで日本の俳優が舞台であるいは映像で「裸のスタイル」で演技をすると仮定すると、アラビア人から激しい抗議の嵐に見舞われることは、必定である。この点を考慮して演技を表現する時に留意しなければならない。
 また、「世界のタブー」の研究も必要である。例えば、演劇で「子供の頭をなぜるシーン」は別に違和感がなく日本人の心の中にはいるが、このシーンを東南アジア、特にタイ国で上演した場合、ほとんどのタイ人の観客は、憎悪感を感じて会場を後にすることである。なぜならば、タイ国では「子どもの頭」は、神聖な霊である(ピー)が宿っているので、絶対に触れてはいけない場所なのである。以上の2つの研究を通じて演劇の構成時に非言語の自覚に留意しない限り、「日本で作られた時代劇・現代劇等の演劇」が、海外で上演され成功を収めることが不可能である。現実的にそれらの演劇が海外で人気を博しているとついぞ聞いたことがないし、これからも難しいと言えるのである。例外的に年に何回かは「日本の伝統の歌舞伎等の芸術作品」としては海外公演されて好評を博しているが、それが外国人に歓迎されているのは、歌舞伎が事前にマス・メディア・日本の紹介書籍等を通じて外国人に長い年月に知識として理解されているからであり、広義では日本についての異文化に対してある程度の許容量を持っているからである。逆に「海外の演劇作品」を日本人向けに再構築して公演することはよくある。例えば、「劇団:四季」の数々の作品は、歌舞伎のような伝統的なものではないが、まさに外国の作品を日本人向けに再構築され成功したものである。結論として、本当の意味で日本の一般的な演劇が国際舞台で上演されるには、はるか未来にならないと実現しないように思われる。1578年、日本での布教方針を考えるにあたり、イエズス会東インド巡察師アレシャンドロ=ヴァリニャーノは、『日本人は喜怒哀楽を表情に出さないので、いったい何を考えているのか自分たちヨーロッパ人にはさっぱりわからない』と述べている文章で以上の問題が明確に浮き彫りにされるのである。                         

 

(第5章)
 「役者の演技」は、外見の演技が台本に則って話す・仕草ができればそれでよいというものではありません。外見の動きは、言うまでもなく内面が成就されたとき始めて完成されるものなのである。能の世界では、『能の静止は、息づいている』という。つまり、舞台空間の制約から『動くべきものが動かずにいる強さ、占める位置の確かさ』の演技が生まれたのである。能の根本「静の強さ」は、北原白秋の『白金ノ独楽』の作品に表現されている。

感涙ナガレ、身ハ仏、独楽ハ回レリ、指尖二。
カガヤク指ハ天ヲ指シ、極マル独楽ハ目二見エズ。
回転、無念無想界、白金ノ独楽音モ澄ミワタル。(注2)

 
また、ある文献に次のようなことが記載されていましたので、紹介すると中国で頂点に立つ武術家である王(1886~1963)氏が曰く『体や手の動きを俊敏にするには鍛錬に際して動かないのがもっともよい。その動きは動いているようで動いておらず、動いていないようで動いている。静止しているようでも静止していない。動きの形跡があってはならない。精神的意味は深く、形の上だけの動きはいけない。形の上の動きは形のみのものであり、力が分散してしまうからだ』。私自身武術の心得がありますが、縦横無尽に動き回るには、最初は常に『不動の姿勢』を作ることである。そうすることによって、いつでも打ち込めると同時に対する者に自分のすきを隠し、また見えない威圧というか気迫というかそういうもので相手の気持ちを動揺させる。つまり隙がないのである。剣術の達人が、よく対決の場面で『不動の姿勢』をしている場面を見かけたことがあるが、まさに双方が達人であれば、何時間もお互いに微動だにしない。表面では、何も動きが見えないが、双方の心の中では『内面の活動自在』がある。
 宮本武蔵も『五輪書』(注12)の『水の巻の兵法心持のことの章』で次のようなことを述べている。『兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替わる事なかれ。常にも、兵法の時にも、すこしもかはらずして、心を広く直(すぐ)にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。(中略)うえの心(外見)はよはくとも、そこの心をつよく、(中略)知恵をとぎ、天下の利非をわきまへ、物毎(ものごと)の善悪をしり、よろずの芸能、其道々をわたり、(中略)兵法の知恵となる心也。』。以上二人の剣豪の名言から、心が外見をあやつり、縦横無尽の行動(演技)ができ、対者(観客)に迫力というか気迫というもの(感動)を与えることができることを示唆しているのである。これらのことは、武蔵の『よろずの芸能』と『五輪書』で言及していますが、武道と芸道との相関図を見出すのである。
 次に、世阿弥の『幽玄』(注10)について私見を述べると、まず世阿弥の演劇論は、根源的な『人間探求』である。世阿弥にとって日常生活がまさに演劇世界そのものであり、『世界が舞台であり、男女はすべて役者』(注10)でありました。彼によれば、能の役の類型は、三つに大別されます。老人、武士、女性であり、最初の老人は、『弱さ』の存在であり、次の武士は『強さ』の象徴であり、最後の女性は、『中庸』の存在を表出しているのである。弱者と強者だけでは、この世の存在は難しく、その両者の間の融合の存在がどうしても必要なのである。世阿弥は、この女性の役を最高の理想美の存在としている。但し、ある文献で指摘しているように、ある意味でそれぞれの役柄に逆説的な要素を要求している。つまり、老人の役柄には、反対の『華やかさ』を、武人には反対の『優しさ』を要求し、『巌に花の咲くが如き』、『古木に花の咲くが如き』芸こそが、彼の理想とするところである。では何ゆえに、『中庸の存在』が最高美であるかといえば、『妙』や『安心』そのものが存在するからである。ここではじめて『幽玄』との関連が生まれる。世阿弥の芸術論の『花鏡』に、『幽玄』について次のように述べている。 『役柄に型にはまった演技ばかりをして、それが最高の位であると思い、姿を忘れているから幽玄の域に入らないのだ。幽玄の域に入らなければ理想的境地とはならない。理想的境地に至らなければ名の通った上手にはならない。だから名人はそういないのだ。(中略)だからといって、幽玄になろうとばかり思うならば、生涯、幽玄には至らないであろう。』言い換えれば、外見だけ役柄をいくら飾ったとしても、自分の姿と同時に内面の鍛錬がなければ『最高美である幽玄の境地に至らないであろう』と私は解釈する。また、世阿弥は、含蓄のある言葉を残している:『幽玄之入堺事』。また、世阿弥は、『心理の動きの自己目的化・完結化』を『花鏡』で述べている。つまり、自分自身の明確な目的を持つことは、イコール自己完結になると解釈する。『花鏡』で『無心の位にて、我心をわれにも隠す安心にて』。つまり、自分の心を観客のみではなく自分自身から隠すと心の平安になる。それが本来の演技の姿になる。自分なりに勝手に解釈すると、ずばり『無心の心』の大切さを婉曲的に謂っているように思われる。                                         

 

(結章)
以上『無心』の状態の重要性を強調しているが、この文面で、私の目に留まるのは『安心』という語句なのである。私が思うには、この語句は日常使用している意味ではなく、演技者の行動()の究極的な境地であり、別の言葉に置き換えると『安堵』とも言える。観客が鑑賞する心に『安心感』を与える演技であると同時に演技者自身役柄の完成された姿であり、双方の『安心作用』は、まるで電流の陰極・陽極のようなものである。たぶん、人は『無心』すなわち『安心』であるというかもしれません。私は、もっと広義の見地から今の季節(秋に入ろうとしている10月の初旬)で言わせていただきますと、自然の移り変わり、季節の中で春の時期と同じように自然の不思議さや神秘さや偉大さを痛感する。そこの懐の中に『自然の姿』への傍観者としての私に何か安堵感を与えてくれる。世阿弥は、すべての演技者に其のことを伝えようとしているように思われる。否、すべての芸術を追求するものに諭している。私自身は、いつも、演技の仕事が終えた後、毎回反省の繰り返しであり、世阿弥が理想としている境地の足元にも及ばなく自己嫌悪に陥るのである。人はよく、自然の懐に入ると『落着くとか安心感』を感じるとか言うが、何か自然の姿と人間との大気や地面を介しての『一体感』から生まれるともいえるのでないかと感じる。自然の呼吸をじかに感じる瞬間が何か安堵感に包まれている。言い換えれば、何か自然の懐に包まれている感じがある。また別の言葉を借りれば、万物と自然との融合である。仏教の一つである『禅宗』の座禅の境地に『無心になれ』というものがあるが、それは、すべての煩悩といわれているものを断つ事によって悟りが見出されるといわれているが、私自身時々禅を組むのであるが到底そのような境地には到達することはできない。但し、稀に無心の心を感じることがある。其の瞬間は、まさに静寂・時間・空間を超えた何か『真空』の雰囲気を感じるのである。其の境地はまさに不動の心と言えるかも知れませんが、それと世阿弥が言わんとしている『無心の境地』とある意味で関連性があるように思われる。
 つまり、『不動の心』と『無心』の2つのアンチテーゼを持つことは、演技者として決して忘れてはならないことである。その域に達した時に初めて自分と自然との一体感が得られ、計算された人工的な演技ではなく、ためらいのない自然の流れの「自然の演技」ができるようになるのである。
最後に、日本古来の古武道の名言を紹介する。「因縁和合によって消滅する宇宙万物の実体は、現実にして、しかも平等であり無差別でもあり、あらゆる万物の法則でもある。このように、自然がなすがままに従えば堅石をも障害とはならず、どのような強剛強敵をも制することができる。」
 演技の理想の究極な姿は、山形県黒川能の「黒塚」のあばら屋に糸車織る老女そのものである。全ての感情を吸収して、見る人の視線を固定してしまう。外見は、静止画が漂っているが、内面での表現を見る者に強烈に感じさせるのである。その内面の激しさは、どのような技量で発露するのであろうか?

『どこからともなく散ってくる木の葉の感傷
あるがままに雑草として芽をふく
ぬくうてあるけば椿ぽかぽか
風はほどよく春めいた藪と藪
ひっそり咲いて散ります
枇杷がかれて枇杷が生えてひとりぐらし
照れば鳴いて曇れば鳴いて山羊がいつぴき
身のまはりは草だらけみんな咲いている
ころり寝ころべば青空
なにを求める風の中ゆく
青葉の奥へなほ径があって墓
それもよからう草が咲いてゐる
月がいつしかあかるくなればきりぎりす
木かげは風がある旅人どうし
日の光ちよろちよろかげとかげ
月のあかるさがうらもおもてもきるぎるす』(注13)

 (脚注)
(1)
増田正造『能の表現(その逆説の美学)』、中公新書260、『第一章 逆説の構造』、6p.~7p.、19p.、20p.~21p.、30p.~31p.
(2)千田是也『演劇入門』、岩波新書、1966年、『Ⅰ―演劇という形』32p.、、『Ⅲ―俳優の仕事』70p.
(3)水品春樹『演技入門』、ダヴィット社、1959年、『演技と演技者』38~39p.、『話し言葉の表現要素』152p.~153p.、『こころ(二)観察について』240~241p.
(4)K.スタニスラフスキー『俳優の仕事』(上巻)(千田是也訳)、理論社、
1976年、『第3章:行動・≪もし≫・提案された状況』73p.
(5)アントナン・アルトー『演劇とその形而上学』(安堂信也訳)、白水社、
1965年、『感性の体操』223p.
(6)蔵持不三也『ペストの文化誌』朝日選書、1995年、終わりに―ペストの文化化、366p.
(7)K.スタニスラフスキー『俳優修業』(第Ⅰ部)(山田肇訳)、未来社、1975年、第十三章『途切れぬ線』、372p.381p.372~373p.
(8)世阿弥『風姿花伝』、岩波文庫、1958年(一般に『花伝書』と知られている『風姿花伝』は、最初の能芸論書である。)
追記:『せぬところが面白き』などいふ事あり。これは為手(して)の秘するところの安心なり。(中略)せぬ所と申すは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心をつなぐ性根なり。』
(9)マッスク=ピカート『沈黙の世界』(佐野利勝訳)、みすず書房、1964年、『沈黙からの言葉の発生』17p.
(10)前田重治『芸に学ぶ心理面接法(初心者のための心覚え)』、誠信書房、1999年、『第二部・芸論を読む』90p.『第三部・芸論心覚え』p.179
(11)池田理知子・E.M.クレーマー『異文化コミュニケーション入門』、友斐閣アルス、2000年、『第Ⅰ部アイデンティティとコミュニケーション』31p.~32p.
(12)宮本武蔵『五輪書』、講談社学術文庫(735)、1986年、『水之巻』92p.
(13)種田山頭火『雑草風景」

(参考文献)
(1)『演劇入門』千田是也
(2)『俳優修業』スタニスラフスキー
(3)『風姿花伝』世阿弥
(4)『沈黙の世界』マックス=ピカート
(5)『五輪書』宮本武蔵
(6)『演技入門』水品春樹
(7)『演劇とその形而上学』アントナン・アルトー
(8)『俳優の仕事』K.スタニスラフスキー
(9)『異文化コミュニケーション入門』池田理知子・E.M.クレーマー
(10)『能の表現(その逆説の美学)』増田正造
(11)『ペストの文化誌』蔵持不三也
(12)『芸に学ぶ心理面接法(初心者のための心覚え)』前田重治
*本文中のすべての下線は、著者により加筆

 

 

 

« March 2013 | Main | October 2013 »

Recent Trackbacks

ウェブページ

September 2021
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30