My Photo
無料ブログはココログ

項目一覧


  • (1)おすすめサイト  *岩崎秀夫のギタースクール *私の講演テーマ(2)文化・芸術  *我が旅考察論 *我が演劇論::序論 *我が芸術論:序論 *我が芸術論:本論(更新中)(3)芸能・アイドル  *私の人生行路 *俳優:岩崎秀夫の掲載媒体(更新中) *私の記憶にある出演歴(更新中)(4)日記・コラム・つぶやき  *INVESTIGATION(研究課題)(更新中) *評判をいただいた自作のシナリオ集(代表作) *私のファンの方々へのお詫び状 *私の感じたままに(更新中) *国際派俳優:岩崎秀夫の軌跡

俳優:岩崎秀夫の素顔

  • 著名な政治アナリストである伊藤惇夫氏と私。
    私の好きなスケッチです。

« April 2014 | Main | July 2014 »

June 2014

Sunday, 29 June 2014

日本の国会図書館への書蔵研究論文「我が芸術論:本論(Part-2)音楽論(その1)-2014年度高崎商科大学「紀要」論文採用決定稿

   MY
ATTEMPT AT THE INTERPRETATION

 

             THE
MUSIC (THE SOUND)

 

Hideo
Iwasaki

 

 

 

Nature is the musician who produces a variety of sounds. You can hear
the chorus of the many sounds in the forest: the sound of the wind, the sound
of heavy lightning bolt from the drums of sky, the sound of the dropping of the
rain on the ground, the sound of the crash of the leaves into the wind and the
sounds of the florae and the faunae.

 

 Also,
you can listen to the forest voice and God voice in a sense.

 

The sounds exist from onset of the earth. : the sound of the explosion
of the volcano, the sound of cooling lava . The great nature is the sound
creation artist.

 

Was the sound born on the earth at first Or, is the word born
at first
According as a certain scholar said, the music existed all culture have been ever
discovered. As people are dancing to the Paleolithic cave paintings depicted,
also the bone flute was found in the cave, and we could imagine that obviously
people be dancing with the music of some sort. Then, I will moot the music in
itself. I set up the several questions occurred to my mind. That is, (1) What
is the original music pattern? (2) Is it necessary for the humankind to live along
with the music? (3)I wonder if we can’t live without it. (4) Is it meaningful
for us? (5)What is its role? (6)Why does the variety of the music give rise to?
 (7)Why can we attract it, and feel sympathy to it fiercely. (8)What is
the music in itself? (9)What is the rapport between the music and religion?
(10)What is the both side of the music? (11)What is the music in the space?

 

 

 

[キーワード:自然、神、音(楽)の全面否定、両面性、沈黙の無限性]

 

序文

 

自然は、多種多様な音を作り出す音楽家である。耳を澄ませば風の音、大空からの稲妻の激しい太鼓の音、雨の地面をたたく音、風の波間にぶつかり合う木の葉の音、森ではなんと多くの音の合唱が聞けることか?また、森の声、ある意味では神と声が聞こえる。

 

地球が生まれた時から、音が存在していたのである。火山の爆発の音、溶岩が冷えて固まる音・・・

 

大自然は、音の芸術家であることか?

 

 

 

問題定義

 

言葉と音(楽)のどちらか先に生まれたのであろうか?

 

何故に、音は人間に心の波を引き起こすのであろうか?

 

音の世界に生きている人間が音のない世界で生きてゆけるのか?

 

何故に音楽が人類には必要であったのであろうか?

 

音(楽)がなんの役に立つのであろうか

 

音(楽)の役割とは?

 

何故に世界にはいろいろな音(楽)が存在するのであろうか?

 

本来の音とは?

 

なぜ多くの人々を同じ曲に共鳴して感動するのであろうか?

 

音(楽)と宗教の関連性は、はたしてどこにあるのか?

 

音(楽)の2面性については?

 

音楽とは、音を楽しむといわれているが、楽しむとはどういうことなのか?

 

宇宙では、音楽は無論のこと「音」が存在しないのではないか?

 

それらの疑問に対して解明を試みるのである。

 

考察

 

これからいくつかの課題を論証する。

 

第1章

 

言葉と音楽のどちらか先に生まれたのであろうか?

 

このテーマについては、どちらが先に生まれたという問題より言葉と音楽との相違でなく、同心円的なものであり、お互いに必要な時に使い分けをしていたことである。それを裏付ける根拠が次のジャン―ジャック・ルソーの文面から理解されるのである。

 

革命的社会理論家であり、また優れた作曲家であったルソー曰く「初期の人間社会では、歌と話しことばの区別がなく、最初の言語は、歌われていた。特に旋律的で詩的なものであった」(注1)。以上のような歌と言葉との混在化に対して、音楽人類学者であるブラッキング氏は「最初の人類は、歌と踊りが言葉のやり取りの発達に先行した」(注2)。つまり、最初に音楽(歌)が存在したと公言している。

 

しかしながら、先程指摘したように言葉と音楽は同心円的なものであり、また古代ギリシャ時代を概観すると音楽と詩は深い関係にあり、むしろそれらは、同一なものであった。また、古代の詩はイコール歌であった(注3)。古代ギリシャの韻文には、音楽的リズムが韻文に内蔵されているのであった。さらに、小泉氏が指摘しているように、「言語と音楽における相互影響は、(略)どちらが強く影響したという捉え方をするより、本来はどちらも、一本の幹から出た二本の枝であると見る方かよいかもしれない。(略)もともとこのふたつのものは、広く言えば同じものであり、また共通した要素からなりたっているのである」(注4)。よく言われることは、外国語を勉強している人は、音楽が得意であるといわれる。つまり、音楽と語学の共通性が認識されるのである。例えば、英語は抑揚・強弱などがあり、それは音楽との共通要素であるリズムの範囲である。また、小泉氏によれば、言語の持つ音楽性についてもう少し整理がなされているのでそれを紹介すると、金田一春彦氏の「コトバのフシ」の分析を試みて、次のように箇条書きで紹介しているのである。(1)音高的側面(2)リズム的側面(3)音色的側面(4)構成(楽式)的側面である。(1)については、音調言語である中国語・ベトナム語・カンボジア語であり、(2)ヒンディ語・ウルドゥ語・イタリア語・ドイツ語・英語・ドイツ語あり。(3)については、アメリカン・インディアンの言語(ナバホ語)・西アフリカの言語がこの範疇に入るのである(注5)

 

以上のように言語と音楽の相関性を専門的に解釈するまでもなく、私自身が、例えばピアノ・フルアコギター(エレキギターの一種である。ジャズ音楽に最適なギターと言われている)をつま弾いているとき、言葉で感情を表現すると同じ事が楽器で表現できるのである。人間のEmotionalな側面である喜怒哀楽感情を可能にするのである。

 

次にこれらの関連性の中で(2)のリズムについて、もう少し掘り下げて探究したのである。何故ならば、音楽の原型は、メロディではなくリズムであるので、その源を遡って考察することが必要である。

 

原始の時代では、集団の中で言語に替わるものとして、音楽つまりリズムが先に存在したと思われる。小泉氏曰く、音楽の諸要素の中でリズムは本能的な側面が強く出やすい(注6)といわれるように、言語の複雑な構成より、本能に訴えかけ形状化したリズムの方が最初に出現したように推考するのである。特に原始人が集団を構成した時には尚更である。それに関連した事例が、エスキモーの狩猟の中に垣間見ることができるのである。小泉氏は、あるエスキモーの調査(注7)を通じて(A)カリブーエスキモーと(B)クジラエスキモーとの興味のある比較論を展開している。(A)は、集団生活が必要ではなく二人で働くので生活の中に音楽が必要ではなく、他方(B)大勢の力で働かねばならないので、リズムが必要であり、このリズムの規則性が大きな結束力を生むのである。また、言い換えれば、社会と歌のスタイルの決定は、その人間たちが何を食べるか、食料に得る方法に依存するのである。

 

ところで、エスキモーの記述に関連して、小泉氏は音楽のモンスター的な姿を次のように述べ、我々に警告しているのである。

 

「我々が音楽的だと考えていることが、本当は人間の不幸の始まりかもしれない。自然に中で生きているエスキモーは、みんな一緒に力を合わせていかなければ生活ができないので階級制度が存在しない。また、土地は凍っているだけであるので、自分一人で買い占める土地としての価値がない。したがって、財産がないから身分の上下がない。それゆえに音楽の構造もシンプルである。(しかしながら、人類の長い歴史のなかで=著者の追加文章)素晴らしい音楽を人類が持つということと人間の不幸とは、何か直接の関係がる様に感じるのである。」(注8)つまり、世界で人類が縦割りの階級社会が形成されるとそれに伴って音楽が複雑になり、ある意味でその社会の固定化から生まれた複雑な構造の音楽が生まれたのであるが、パラドックス的にいえば、そのような状況が続くと音楽が社会の固定化に一役買っているのであろう。一つの事例として(著者の区分け)ジャンルでいえば、宮廷音楽あるクラシック音楽とジプシによるジプシー(ヒタ―ノ)音楽の違いのようなものである。

 

個人的には、ジプシー音楽が最低の音楽ではなく、唯、階級社会からの観点では、前者は、上流社会であり、後者は放浪の民族であり、ある意味で社会組織からはみ出した民であるという意味で区分けしたのみである。

 

第2章

 

リズムの文化論

 

何故に世界に一つの音(楽)リズムが存在しなく、世界には多様なリズムが存在するのか?何か外的な環境要因が関係しているのではないかと仮説するのである。

 

小泉氏によると諸民族の音楽のリズム的特徴を理解するためには、環境だけではなく、社会と経済の基盤を考えなければならない力説するのである。つまり、日本やアジア地域の住民は、本来農耕民であり1年の周期の中で生活をしているので、その規則性の中から生まれるリズムが存在し、他方砂漠地帯である乾燥した地域、あるいは北極の地域また、牧畜の地域に住む住民は、一年周期の植物を相手にするのではなく仕事のテンポが速いのである(注9)。前者の農耕民の世界では、周りの隣人と上手く共同生活を継続させるために、個人の自己主張を控え、調和と釣り合いが大切といわれているのである(注10)。リズムについてもゆっくりと変化する四季と同じ緩慢なテンポが生まれ、リズムの細やかでひたむきなものが好まれる傾向がある。このような傾向にある農耕民は、喜びや個性を失くし老若男女が自由に区別なく参加できる象徴的な形を取るのであり、典型的な例が「盆踊り」である(注11)。つまり、自分らの個性を抑えて隣人との調和に重点を置いている「だれでも参加できる」形態である。他方、遊牧・牧畜・漁協の民は、対照・急激なバリエーション・享楽的・刹那的なものが求められるので、リズムも必然的にそのような傾向のものになるのである。個人の激しい表現が極限まで強調され、集団の和の精神より個人の力量が評価される世界である。つまり、「誰にもできないような技量」がすべてである。後者は、音楽に合わせて足を踏みならす踊りがあり、例えばロシアの有名なダンスの形態であるコサック踊りであり、またジプシーの民族音楽であるフラメンコのダンサーの踊りある。上半身は常に直立であり、コサック踊りには言葉がないが、フラメンコ音楽には、カンテの歌詞があり,強弱アクセントが激しく自己の喜怒哀楽の表出が存在しているのである。つまり、本来的に農耕民である日本人は、「個」より「和」を大切にする民族であり、例えば、何かを成し遂げた時の言葉は決まって「自分一人の力でなく皆様のおかげで成功しました」とよく何かの試合に勝った時の実況放送の時のアナウンサーのインタビュー時のシーンでよく聞かれる言葉である。他方、西欧では「和」より「個」に重点を置いているので、同じインタビューシーンでは、選手は異口同音に「自分の力を十分に発揮できました。」と自分自身の成果を褒めたたえるのである。

 

その「和」と「個」の違いは、日本と西欧のいくつかの曲集の比較を考察すると明確になる。(注12)

 

つぎに「集団行動」と「個人行動」との違いが、結局は音楽のダンスの形態の違いにも表れているのである。

 

ここで興味のあることは、日本人と西欧人との音楽に合わせて踊る、POSTURE(姿勢)の違いである。日本では、「阿波踊り」のように姿勢が前かがみになり、腰が低くなるが、西欧では、社交ダンスでは、背筋を伸ばすことを指導される。その違いは、水田農耕民では、背中を丸めて仕事をするのであり、西欧では、本来遊牧的気質を受け継いでいるので自由に飛んだり跳ねたりする躍動的リズムを基盤としている(注13)。言い換えると、広い意味でアジア圏では農村主体の生活圏であり、「静」の動きがあり、他方西欧では動物との生活を通じて(牧畜圏)、「動」の動きが自然と身についてきたのである。

 

次の考察として、リズムの表現で東洋と西洋地域では、一曲の流れに顕著な相違があり、また一回体と回帰体の現象が見出され、それは、自説として、両地域の宗教に関係がある。つまり、キリスト教の一度死して復活する考えがあり、他方仏教の場合は、一度人間が死ぬと輪廻からの解脱を願うことである。それば、両宗教の埋葬方法との違いと関連性がある。キリスト教の信者は、彼らは一度死ぬと再生を信じているから埋葬は火葬ではなく土葬であり、仏教では、一度人間が死を迎えると復活することはないと信じられているので、火葬にされるのである。

 

さてここで、リズムに関連して小泉氏によると、平安時代の雅楽では序の曲、破の曲、急の曲の区別があったといわれ、またその考えを深く探求したのが能の世阿弥である(注14)。日本の場合は、川に流れのような過ぎ去るものは再び帰らず、日本の諸芸に共通していると言われている(注15)。インドから西のヨーロッパではロンド(繰り返し)の傾向があるといわれる。日本の一回体は、まさに鴨長明の[方丈記]の名文句である「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」の世界で具現化されているのである。

 

また、重久 剛によるとリズムやメロディーでは、日本音楽の「しらべ」は、欧米人に「単調な」趣を、欧米音楽のダイナミックな響き(リズム・メロディー)とは、到底相容れないのであると述べている(注16)。日本音楽の原点は、ある意味では、「静」の世界であり、「自然と人間の一体感」を表現した「同化」から生まれたのであり、自然の中の一部である人間であるという「自然同化説」であり、自然と人間はイコールの関係であり、欧米の人間と自然との関係とは明らかに違うのである。ご存じのように、欧米では、人間が上位で自然が下位である。日本の場合は、自然崇拝のアニミズムから由来する。つまり、人間と人間以外の自然との共存共栄の考えであり、万物と自然との融合である(注17)。仏教の一つである『禅宗』の座禅の境地に『無心になれ』というものがあるが、それは、すべての煩悩といわれているものを断つ事によって悟りが見出されるといわれている。無心の境地の瞬間は、まさに静寂・時間・空間を超えた何か『真空』の雰囲気を感じるのである。其の境地はまさに不動の心と言えるかも知れませんが、それと世阿弥が言わんとしている『無心の境地』とある意味で関連性があるように思われる。 
第3章

 

音(楽)の利用の仕方で悪に変貌

 

音楽は、祝祭・宗教的儀式・運動競技大会では、必要なものであった(注18)。特に、*アラン曰く:詩的なリズムは、行進する人間の集まり、一つの協和、一つの盛典を喚起するのである(注19)。つまり、群衆のいろいろと異なった気持ちを一緒に束ねる力を持っているのである。これに関連して、アランの文章からある負の要素を垣間見るのである。つまり、リズム、広義での音(楽)は、多く群衆を牽引する力があるが、一つの体に二面の顔を持ち、正の面では、良い方向への集団の結束を一つにする面がるが、それが負の面で現れると、それが宗教的な面で利用されると、とかく盲従する信仰と結びつき、自己の判断が麻痺してしまうのである。この点について留意しておきたい重要な事柄であるので、より深く検証する必要がある。

 

アラン・ブルームによれば、ロックが学生に及ぼす影響について興味のあることを述べている(注20)。つまり、ロックが他の種類の音楽への興味を失わせ、聞こうとする気持ちを失くしてしまうことを恐れているのである。ある意味でロックが音楽世界の中で壁を作り、その中で若者のエネルギーを封じ込めているのである。

 

 

ところで、ロックとは何かといえば、エルビスやビートルズに代表される電気ギターを使った音楽であり、リズム・アンド・ブルースカントリー・ミュージックから強い影響を受けた1940年代1950年代のロックンロールであると言われている。ロック自体、ジャズ・フォークなどの現在流行している音楽からも大いに影響を受けている。では何故に、多くの人々、とりわけ若者がその音楽に傾倒するのであろうか?

 

それは、ある意味では現代音楽の原点であり、ロックを学ぶことによって、若者の激しく燃える精神のはけ口として、つまりどこにぶつけていいのか分からない心のよりどころの世界がそこに見出せるのである。また、ある人は、ロック音楽は、既成概念体に反する、反社会的な傾向の音楽であるといわれる。いずれにしても、ロックは、他の音楽にはない若者を引き付ける烈しさがあり、また没頭しやすいのである。もし、ロックのみにしか興味が湧かなくなった場合、広い音楽世界では、あまりにも偏狭的な音楽感覚が、かれらに植えつけられるだけであり、ある意味では音楽全体の破壊に繋がれかねないのである。言い換えれば、ロック等の前衛の音楽に傾倒過ぎると、本来人間が持っている音楽的感性(sensitivity)の原型の麻痺を引き起こし、他の音楽ジャンルであるクラシック・ポップス・民族音楽等のみならず、他の芸術分野(絵画・建築・演劇その他)での感性をも破壊し、Chaosの渦に巻き込む力・無秩序の世界へ先導する力を宿しているのである。

 

では、感性とは何か?それは、遺伝的なものより、生まれた後の後天的ものであり、周り環境が作り上げたもの。感性という自分のフィルターを通じて感じることである。

 

若者がロックに埋没しているかの判断は、彼らの着ている服装を見ると一目瞭然である。

 

つまり、既成の概念の枠を超えた姿である。ロックのコンサートに賛同する人々の姿を見ると、継承・衣服等でそれがすぐに理解されるのである。

 

ところで、音楽とは不思議な思考である。私は、音楽を思考という言葉と同一視するのである。それに対しては、音楽は、思考でなく感情の領域のものだと主張する反対意見をする音楽愛好家の声が聞こえるようであるが、敢えてそのように申し上げる確証があるのである。

 

 本来人間は、何かに没頭すると、思考回路が脳の内部のみならず、その人の外見も作り上げる。例えば、音楽はもちろんのこと、私の経験で常日頃フランス語に没頭している人は、外見がフランスの服装を好むようになり、持ち物もフランスのものを所持するようになる。例えば、ルイヴィトン・グッチ等のブランド品である。

 

つまり、それぞれの一つのことに没頭するとその世界のそれぞれの職業の雰囲気が外見に現われてくるのである。

 

ところで、本題である「音楽の負の力」に戻ると、集団の中で特にイべントと結びついた時に音楽の怪物的な底しれないフォースを発揮するのである。

 

普通のコンサートの形態であれば、その負の姿が見出せないのであるが、例えば、野外のコンサートライブで何万人もの聴衆がステージのミュージシャンの演奏に自己陶酔する姿は、何か信仰的な様子を感じるのである。よく、聴衆の方々がライブを終了後のテレビインタビューで一言「現実を忘れ、夢のようでした。本当に楽しかった。」と異口同音に言う言葉を聞くと、音楽の理解を超えた深遠な得体のわからない魔物の存在を感じるのである。その存在は、正と負の両面を持った魔物である。それのどちらの面が顔を出すのかは、人間の感受性の光方の方向で決まるのである。

 

その顕著な例として、ヒトラーの場合がわかりやすい事例である。1936年のニュルンベルク党大会では、音楽や旗、サーチライト、行進行列が事前にお膳立てされ、その中で感情的な熱のこもった演説(呪文)が行われたのである(注21)。その効果は、絶大であり群衆は、彼の呪文に対して恍惚に酔いしれたのである。ここで音楽の計りしれないパワーを痛切に感じるのである。群衆の批判的判断力を喪失させ、彼を神のような存在と感じさせる盲従の極みである。その勢いで群衆は、ヨーロッパ世界を蹂躙し、多くの人々を死へ追い立てたのである。特に、彼の指揮下に無実なユダヤ人たちを殺戮した。本論とは関係がないが、ユダヤ人のヒットラーによる迫害は、あまりにも有名あるが、ジプシーへの迫害を決して忘却の彼方へ押しやってはならないのである。

 

「ジプシー」という存在は、時と場所を選ばず社会から疎外・無視され迫害された民族であり、例えば、第二次世界大戦時ヨーロッパを占領したナチスドイツによるロマ民族に対する試みは、悲惨極まるものでした。ロマ民族の言葉であるロマニ語でポライモス(Porajmos)~食らい尽くす、絶滅させる~というジプシー絶滅政策は、ヨーロッパに住む多くのロマ民族が殺されました。その数は正確には把握することができなく、1939年の欧州におけるロマ人口885千人(推定値)のうち25万から50万人殺された。この時期のロマ人口をより上記より多く見積もり、100万人から400万人殺されたと云われる。

 

ナチス占領下の欧州で全ロマの7080%殺された(注22)。この数値のどれが本当なのかは不明ですが、この時期にポーランドのアウシュビッツなどの収容所でユダヤ人ゲットーの中に「ジプシー・ゲットー」という区域が存在していたのはまぎれもない事実のようです。この収容所で行われていたのは、強制労働・人体実験・毒ガスによる集団虐殺などユダヤ人のホロコーストと同様のことでした。戦後、ロマに対するポライモスの事実はユダヤ人の場合と違い、明らかにされることなく補償も無視され続けてきました。

 

「音楽の力」のテーマに戻ると、身近な例としては、日本の軍歌の代表的な「同期の桜」(注23)である。この軍歌に鼓舞され、多くの若者の命が戦場で散ったことか?

 

さらに、宗教世界での音楽の役割の重要性を認めざるを得ないのである。西洋のキリスト教会のオルガンの響き、聖歌隊の歌声、イスラム世界でのミナレットから放送されるコーランの調べの音楽、日本のお寺の読経の響き、密教での邪気をお払いするためのお焚き、また音楽的な読経、金剛鈴(こんごうれい)の音色。

 

音楽の負の力ではないが、「音」で思い出されるのがヨーロッパ中世期の教会の鐘楼の音の力の存在である。中世ヨーロッパについての日本の第一人者である阿部謹也によれば、中世の音の世界を語る時に、どうしてもそれを抜きに中世の音楽を語ることができないのである。中世の人は、音を大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)に分けていたのである。つまり、自然から発生した音である森を吹き過ぎる風の音、オオカミの叫び声も、大宇宙からの音として恐れられていたのである。小宇宙の音は、病気の流行や嵐に対し鐘を鳴らしてそれを防ごうとしていたといわれる。つまり、鐘の音の力で小宇宙を守ろうとしたのである。小宇宙の平和のシンボルとしての鐘の音の中に、ヨーロッパの真の姿を知るのであると論述している(注24)。また、一日の時間概念を鐘の音で住民は、規則正しい一日の生活リズムを刻んでいたのが理解できるのである。

 

鐘の音で邪気を病気その他怖い不吉なことをお払いするために、小宇宙の音で自分らの世界を守ろうとしたヨーロッパの教会の鐘の音と同じような意味合いが、遊行が携帯する道具(比丘十八物)の一つである、つまり錫杖である。

 

日本の錫杖(しゃくじょう)の尖塔についているなどで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん)といわれるものが6個または12個通してあり、音が出る仕組みになっている。錫杖は、修行者が山野遊行の際に、地を突き、振り鳴らし、猛獣毒蛇などから身を守るために携行したもので、また、托鉢のときにはこれを鳴らして来意を告げるためにも用いられ、仏具として広く流布したものである。この音には,悪霊を攘却する呪力があるとも考えられていた。修験者は,手錫杖を好んで用い,これを打ち振って尸童(よりまし)を神がからせることもあった。つまり、厄除け・災難除けの道具としての役割持っていたのである。数珠からの音によって同じ魔よけの効果があると信じられている。また、日本の寺の鐘の音やある宗教団体体が托鉢しながら小太鼓を片手に持って回遊する時の音などは、邪気や災いを排除する力があると信じられていたと言えるのではないだろうか?

 

第4章

 

いつごろから人類が音(楽)を作ったのであろうか?

 

ある数の人間が集まり、つまり集団を作り、日常の単調さから解放のために音楽が生まれたのではないかと想像する。

 

また、ある程度の集団社会を作り上げるとその集団の秩序を作り上げるためにハイアラキ―が必要であり、また宗教階級の存在が必要不可欠であった時点で、祈祷師による呪い(まじない)と共に音楽が必要であり、その効果は語りより強烈な効果を与えたに違いがないのである。現在でも、密教である不動明王の祈祷の時によく見かける光景として、護摩を焚きながら太鼓をたたき、リズムのある読経が堂内に響き渡り、神秘な雰囲気を作り上げる効果をあげている。在家の人々の間でよく知られている

 

私事であるが「般若心経」は、やはりある種のリズム・抑揚・強弱があり、それを唱えるときある種の音楽性が存在するのである。また、中陰和讃にもそれを感じとるのである。

 

また、小川のせせらぎの音・風のそよぐ音・滝の音等に心が動揺するのである。

 

その衝動は、万国共通のようである。これに関連して、ある音の選好度の調査でニュージーランド、カナダ、ジャマイカ、スイスに住む人々を対象に、それらの音に対し不快の気持ちを示さなかったばかりか、心地良いとの結果が出た。(注25)

 

 私見として、この調査はある偏りがある。つまり、これらの国は、自然に囲まれた環境のところであり、自然に対する感性度が他の国々に比べて高いのである。それらの国々に比較して、あまり自然に囲まれてない国々の都会での調査が欠落している。

 

この点で、自然の国(A)と都会に囲まれた国(B)との音に対する感度の違いが存在すると確信するのである。つまり、双方の音(音楽)を作る時に音の地理的反響があり、例えば、山に囲まれた場所では山と山のとの間隔が広く音の反響(エコー)(*こだまのことではない。)が弱く、逆にビルに囲まれて都会ではその反響が距離的に狭くその反響音が強いのである。それの理由で(A)では、澄んだ高音の心地よい音が作りだせるのであり、(B)では、低い音、刺激的なDistortion(歪みの音)が作られる傾向あると分析する次第ある。つまり、同じ音でもその音量の塊が(A)では細く長く(B)では厚く硬いものになると思われるのである。

 

 つまり(A)では、例えば、ヨーデル音楽の楽器にしても歌にしてもかなり高音を発するのに対して(B)では、Rock/R&B/Funk/HipHop/Hard Rock/Jazz/Classic等では楽器にしても歌にしても極端な高音を必要としない。しかしながら、その都会のジャンルでRock等を高音であるという人がいるかもしれないが、それは、高音でも(A)の澄んだ音ではなく、人為的な音なのである。その都会的な音は、どこから来るかと考えるに都会で生まれて、都会で育った歌手・楽器演奏者は、機械音をテレビ・ラジオから聞いているので脳裏にそれが染みつき、声にした時又は演奏する時、どうしても機械の音楽から離れられないのである。どんな澄んだ音を機械が作りだそうとしても限界がある。

 

ある意味では室内用のものであり、都会音楽演奏範囲は、よくコンサートホール・ライブハウス・ストリートで演奏される傾向が多く見受けられる。そのような地理的配置を無視できないのである。音の形成には、それぞれの民族と土地と地域の大気が関連している。

 

音と街並みとの関連性も無視できないテーマである。また、音の波動の障害物に衝突して帰ってくる音の現象は、特別に山と山のない都会との音の違いを取り上げるまでもなく、身近なものから理解できるのである。つまり、ホール・トンネル・渓谷・地下室等の場所で音を鳴らすと感じる違いである。

 

また、将来研究をすることによって、自然と都会の音楽を聴いてどこの国の山またはどこの都市から生まれた場所かを確認できるかもしれない。それは、次回の課題にする。

 

いずれしても(A)と(B)音楽構成の方法からジャンルの違う種類の相違が見られるのである。

 

 これに関連して、アンソニー・ストーは興味のあることを記述している。彼によれば、「音楽は世界の地理に明るくなるためのメモリーバンクである」している。つまり、原住民は鳥がなわばりの境界を主張するのに鳴き声を使うと同じように歌を用いているといわれる。それに関連して言えることは、音楽の種類によってそれがどの場所のものであるかがわかると言える。音楽の地域性の分布がわかるのである。(注26)

 

 地域制の違いで大変興味のあるご指摘をしている小泉文夫氏の「音楽の根源にあるもの」の中で日本のような農耕文化と遊牧・牧畜社会の音楽について、むしろ広義の芸術一般について比較論の展開をしているのである。(それについては、前述の「リズムの文化論」参照)(注27)

 

ところで、人間が、五感である視覚・味覚・触覚・嗅覚・聴覚の中で聴覚が特に発達して、感受する「音」の対して敏感であるということは、その起源はどこにあるのであろうか?(2)音楽教師あるデイヴィット・バウロズは、「胎児は、子宮の中で、戸がバタンと閉まる音にびくっとする。子宮の中で聞こえる豊かで温かい雑音が記録されている。赤ん坊にとって自分の皮膚のさらに向こうにある世界について、その存在を示してくれる最初のものの一つが、この母親の心臓の鼓動や呼吸なのである。」(注28)と指摘するように、その他の諸感覚の中で聴覚がヒエラルキーの頂点に立つのに疑問の余地がない。

 

特に、女性の方が男性に比べて聴覚に対して敏感である。男性の方は、視覚に優れている。例えば、夜の営みの時に女性は、目を閉じ男性の仕草・言葉を聴覚で判断し覚醒するが、男性は女性の身体を視覚で見て覚醒するのである。つまり、女性の方が、音に対して敏感であるとの結論が導きされるのである。よく激しいロックコンサート等の時に興奮して心神してタンカーに運ばれるのは、概して女性である。また、戯曲の傑作といわれるロメオとジュリエットの物語で、ロメオがベランダ越しのジュリエットに愛のセリフを言うシーンを見ても、男性が女性に声をかけることからも女性の聴覚へ働きけると効果が大きいのが理解できるのである。

 

それに関連して、興味のあるのは、鳥の事例では、雄は、自分の好みの雌を探すのに「視覚」を使い、鳴き声では、雄が雌の聴覚へ一方的に発するのである(特に、性的挑発時)。この行動から判断して、雌の聴覚の優位性が認められる。

 

では、次に鳥の鳴き声との関連として「音楽性」を検証する。

 

 アメリカの鳥類学者であるハート・ショーンは、鳥のさえずりは、音のパターンと行動状況が音楽に似ている。・・・音楽技法の中で単純なものは皆、イチョウとそれに伴うハーモニーですら、鳥の音楽のなかに見られるのだ。つまり、鳥のさえずりは、イコール音楽性を帯びていると定義する(注29)。それを認めない著名な学者であるレヴィー・ストロークは、鳥の鳴き声は、音楽の起源ではないと主張する(注30)。更に、そのような根拠も確証もないと重ねて強く言い放ったのである。それらの主張の対立に対して、ストラヴィンスキーは、中庸の論を述べている。鳥の鳴き声のような自然界の音は、・・・音楽を私たちに感じさせるものだと指摘する(注31)。私自身も、ストラヴィンスキーの意見に同意する。むしろ、自然界が、音楽の教師であり、私たちに音楽の何がしかのヒントを与えているのである。事例として、リストのピアノ曲《二つの伝説》の「小鳥に語るアッシジの聖フランシス」は、小鳥のさえずりが存在していたから、曲が完成したのであり、ドヴォルザークの作品の主旋律を小鳥の鳴き声からヒントを得たことである(注32)

 

 また、人間が作る音楽とは何か?人間以外の動物の鳴き声とどこが違うのであろうか?

 

人間界の音楽は、原始時代は音楽の音が存在したのであろう。つまり、一音の音である叫びであったろうと想像するのである。その限りでは、一般的な意味で他の動物と特別な違いがなかったのである。ある意味で、人間の鳴き声にしろ、動物(鳥の鳴き声含)のそれにしろ、自分らの縄張りを作るために作られたと思われる。また、動物行動学者のコンラ―ト・ローレンツ博士は、興味のある指摘をしている。つまり、鳴鳥の歌声は、領土独立宣言をして縄張りを確保しているのみならず、多くの種類では鳴き声から、鳴いている鳥がどのくらい強いか、年はいくつか、言いかえると、その鳴き声を聞いた侵入者が歌手にどれほど恐れねばならないかを、たいそうはっきりと聞き取ることができるということも重要である(注33)

 

次に、動物に鳴き声に関連して、世界中の人々がそれら動物の鳴き声に同じように聞こえているのであろうか?無論、否である。世界の擬声語では、例えば、ニワトリの鳴き声一つをとって調べてみても同じ発音には聞こえないのである(注34)。つまり、国または民族によって相違が認められるのである。つまり、同じ動物でもいろいろな国の外国人が違う音として認識することは、「音の認識」の観点から大変重要なことを示唆しているのである。つまり、動物の音楽的鳴き声が国の民衆の聴覚を通じて相違が証明されたことは、人類が作る音楽の受け止め方が人々によって違うのではないかと疑問が浮かんでくるのである。名曲といわれている作品でも、同じように全世界の人々が同じように聞こえてくるのであろうか?疑問が残る。唯ある地域の人々が名曲と強く認めているから、他の地域の人々もあまり考えないでそうかもしれないと思い理由もなく妥協しているのではないかと思われる。例えば、日本の代表的な曲である「さくらさくら」は、日本人の間では、名曲として親しまれているが、他の国の人々が本音のところでどう評価しているのか?

 

別の角度から検証すると、動物の鳴き声は、世界の人には違ったように聞こえるが、人為的な曲は、世界中の人々には同じように聞こえるのかもしれない。また、動物の声帯を使った音は、違った音として聞こえ、人間が制作した音楽楽器で奏でる音は、全世界では、同じに聞こえるのかもしれないである。その点は、今後の課題である。

 

第5章

 

音の世界に生きている人間が音のない世界で生きてゆけるのか?

 

ストー曰く:暗闇の世界は怖い。・・けれども、音のない世界はもっと恐ろしいのだ。・・静寂の世界は死んだ世界である。(注35)

 

実際、音のない世界に人類が生活するのは不可能である。拷問で自白をさせる一番の方法は、囚人を音の遮断された部屋に住まわせることだと言われている。

 

ストー曰く:静寂の世界は死んだ世界である。遮音、遮光の部屋に一人で引きこもれば、ニルヴァーナに似た法悦や緊張からの解放を短い時間味わうこともできる。ところが、長期間にわたって一人で閉じ込められると、何か刺激のあるものを見つけようと必死になると言われている(注36)。刑務所の囚人に話を戻せば、よく聞くことであるが、長期間入っている囚人は、たとえば、文章力のある囚人は、自分の伝記文章を書いたり、また絵を描くのが好きな囚人は、絵を描くのであろう。また想像力の囚人は、詩でも書くのであろう。さもなければ、幻覚を見て発病するのであろう。人間は、音のない世界では、自分自身の内部へ関心が向けられ、自分の世界に埋没するのである。

 

ところで、本来的に音楽が存在しなければ、人間は生きてゆくことができないのであろうか?

 

但し、人間が誕生した時点では、全くの想像の世界であるが、音楽は存在してなかったのではないかと想像する。

 

たとえば、原始時代の人々は、音楽ではなく「叫び声」という音を通じてお互いの意思の疎通の手段として存在したように思われる。その音を通じてお互いの意思を確かめ、共同体を形成するのに大いに貢献したのであろう。つまり、ここで意味する音とは〈楽〉を除いたものであり、ある意味では、言語と同一視の関係であった。一種の叫び声かもしれない。または、集団のアイデンティティには必要であったのであり、その集団の維持するためのそのものであったのであろうか?また、捕食のための動物を狩りたて、一か所に集めるために使われたのであろうと推測する範囲内である。

 

つまり、原始時代では、音楽の楽(らく)は存在しなかったのである。

 

しかしながら、いままで発見された文化には全て、音楽が存在したといわれている。旧石器時代の洞窟絵画には、踊っている人々が描かれていて、またその洞窟で発見された骨製の笛は、明らかに人々が何らかの音楽に合わせて踊っていたことが想像できるのである(注37)。ところが、遺憾ながら記譜法の発明以前であり、また文字を持たないある文明の先代からの伝承以外の場合の先史時代では、何もその音楽性の存在を確かめる方法がないのである。つまり、人類が始まって以来、集団(最小単位である家族)を構成している以上、何がしかの形態の音楽が存在したのではないかと推測できるのみである。

 

事実、音楽人類学者であるジョン・ブラッキング曰く:「最初の人類は、現在知られているようにホモサピエンス・サピエンスが会話能力を身につけて現れる数十万年前に、歌い踊ることができたという証拠がある。」(注38)。もしこれが事実だとしたら、先程の推測が証明されたことになる。

 

また、歌い踊る時代の根拠として 杉浦健一によると次のことが述べているのである。つまり、文化を持つヒトという名にふさわしい活動をするようになるのは、最後の氷期が衰退し始めた頃の25、000年前から出現したHomo sapiens以降のことであるといわれている。他の動物から区別されるその文化は、(1)火を作り食べ物を調理(2)人は道具を作る(3)人は身体に毛が少ないが衣服を作って身体を守ること(4)人は組織ある社会を作る(5)人は、超能力の信仰を持つこと。(6)人は美しいものを作り出し、それを楽しむこと。ここで注目されることは、(6)芸術的なものである。つまり、現在的な用語である踊り、演劇、建築、彫刻、絵画、散文、の原型が生まれたのである。無論、音楽も含まれるのである(注39)

 

 人間は、ある一定の文化を持つと芸術的な活動をするのであり、それなしには人間と言えないのであり、言い換えれば、人は、芸術なしには存続ができないのであるという結論に達するのである。

 

第6章 

 

何故に、音楽が人類には、必要であったのであろうか?音楽がなんの役に立つ

 

のであろうか

 

前の章(第5章)で述べたように、ある集団を作り上げると、どうしても結束を深めるために組織的な社会を必要としそのためには音楽によって社会を秩序立てるのである。

 

アンソニ・ストー曰く:「音楽は時間を組織化し、同時にそれぞれの活動(礼拝・結婚・葬儀・手仕事等)で覚醒された情動を秩序立てるのである。群衆の感情を高める働きをする点で、それは雄弁家のそれと似ている」(注40)と指摘している。それは、広い人類史の中での原始の時代における食料確保には、集団の結束のために音楽が必要であったと言えるのである。

 

 また、アラン曰く:「あらゆる音楽は、音楽が欲しかつもたらす純粋さ、注意、服従、沈潜、平静によって宗教的である。…本来の意味における宗教音楽はより厳しいものである。…そして、宗教音楽はすべての人を傾聴させる。(注41)。その意味では、前述したように必然的に集団をまとめ上げるためのカリスマ的リーダーが必要であり、また、精神世界を統率する祈祷師的な役割の登場が必要であった。それを神格化するためには、音楽の伴奏が必要不可欠であり、その雰囲気に陶酔する集団がいたのである。アランが云っているような宗教音楽が存在したのである。

 

いつの時代でも、音楽の影響力は強く、身近な例では、日本の「同期の桜」の音楽で多くの兵士が励まされ、戦地に向かったことである。また、ある意味では、「ラジオ体操の音楽」を聞くと、ほとんどの日本人は、何となく体が動いてしまうのである。(注参照)

 

本来音楽は、アランが指摘しているように「音楽は恐らく最も純粋な、最も脆弱で最も力強い、最も崩れやすい人間の形である。」(注42)

 

 ところで、音楽の正の面での効能として、現在では「音楽療法」の形で音楽が役だっている。

 

では、音楽療法とは何か?

 

音楽療法の間口は、大変広く、その内容は多岐に渡ると言われている。音楽療法は、主に、音楽を聴くという受動的な方法と、実際に本人が歌ったり楽器を演奏したりするといった、能動的な方法とに分けられます。音楽療法の受動的な方法は、単調な日々を過ごしがちな施設の入居者に対して、一日の生活リズムに応じて、音楽を聴かせることで、BGMの効果から、気分転換や、情緒の安定に効果があると言われている。また、明るい気持ちになることで、夢や希望を抱かせるのにも効果的である。そのような効能では、施設の入居者の方々のみならず、人生に悩み苦しんでいる人々にも何がしかの心の安堵感、励ましを与えるのである。アンソニ・ストー曰く:音楽は、脳に障害のある人にとって音楽の助けをなしには成し遂げられないような仕事をできるようにする。また情緒的に不安定な人や精神に障害のある人の生活に生きがいを与える。(付43)そのように音楽は、治療として役立っていると云えるのである。

 

つぎに受動的音楽療法を利用することによって、痴呆症やダウン症といったすべての障害のタイプの利用者に応用することができる。また、能動的音楽療法も、楽器習得は自己規律、自己能力への信頼、人の内的な状態が忠実に出たりすることを体験することが可能であると考えられている。

 

それでは、具体的にはどういった効果が期待できるのであろうか。 

 

例えば、アー、ガーという声しか発していなかった、11歳のダウン症の男の子に、約二年間にわたり30分の個人セッションと、クワイヤーホーンという楽器を鳴らすことで、その音で擬音を表すということを行なった。その結果、徐々に発音や言葉だけではなく、歌詞つきの歌も歌えるようになり、太鼓を鳴らしながら歌うことが出来るまでになり多くの人を驚かせたといわれている。
 
 また、60歳代半の男性が脳梗塞により四肢麻痺なり、意思疎通はアイコンタクトのみになってしまいました。何か楽しめることはないかと考え、かつて彼が好きだった曲を、キーボードで弾きはじめ、レパートリーを広げるうちに好みの歌手のときには真剣な表情を示したり、フィンガーシンバルで音が出ると本人が喜ぶといった表情を見てもわかる程の変化を示すようになったという事例も報告されている。また、高齢者・不登校児、薬物乱用者等にもそれなりに音楽療法は効果が期待されると言われている。(注44)

 

次に音楽の素晴らしい可能性について、ロシアの作曲家・ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(注45)の言葉を紹介。

 

「偉大な音楽の芸術を愛し、研究しなさい。それは諸君に崇高な感情、情熱、思想の一大世界を開いて見せるだろう。それは諸君を精神的により豊かに、清く、完全なものにするだろう。音楽のおがげで諸君は自分の中に新しい、これまで知らなかった力を発見するだろう。諸君の目には人生が新しい色調、新しい色彩において見えてくるに違いない。」 

 

第7章

 

音楽に対する聴力は重要であるか?

 

「私には何も聞こえない時、彼(カール)には牧人の歌が聞こえて、いつも私には何も聞こえない時、・・私はほとんど絶望せんばかりだった。・・私を引き止めたのは、芸術だった。」(注46)

 

普通の人は違ってベートーベンは、音楽家であったのであるから聴力を失うことは、自滅を意味する。偉大なベートーべンの聴力を失った時の嘆きは計り知れないものであったろう。

 

しかしながら、ご存じのようにその聴覚を失っても精力的に音楽作品を作り続けた精神的強靭さには素晴らしいという言葉でなく、ある種の恐ろしさを感じる。

 

その精神力が基礎にあったのであるが、実際、彼はどのようにしてその難聴後に音楽活動をしたのであろうか?

 

ベートーベンは、その後特製のピアノを発注し難聴の克服に乗り出している。ピアノは、張り詰めた弦をハンマーで叩いて音を出す弦楽器の一種なので、弦を叩いた振動が伝わってくるようにすれば難聴のベートーベンでも音の強弱を把握することができる。一説によれば口にくわえたタクトをピアノに接触させて、歯を通して振動を感じたとも言われている。ベートーベンは今で言う骨伝導を利用して音を感じていたのである。ベートーベンは、感じ取った音と耳が聴こえていた時期の音の記憶と音楽知識で作曲を続けた。作曲以外のときは、筆談と聴診器のような補聴器の原型で会話を行っていたようである。

 

難聴後に次々に楽曲を量産する。特に1804年から1814年までの十年間は「傑作の森」と呼ばれるベートーベンの黄金期となる。この時期には「エロイカ」「運命」「田園」などの交響曲やピアノソナタ、オペラ用楽曲などが製作・発表されている。この時代に作られた楽曲は、ベートーベンが生涯に製作した楽曲の半数を占めるほどの量と完成度を持っている。晩年は、「交響曲第九番」「荘厳ミサ曲」などを作曲している。(注47)

 

普通、聴覚を失った人は、または生まれつき備わっていない人は、音楽とはかかわりを持つことができないのであろうか?可能性としては、骨伝導を使って音楽活動が可能である。

 

私の知人にも骨伝導を利用して、活躍をしている人物を知っている。

 

 つまり、聴覚を失うことは、音楽活動にあまり障害にならないのかもしれないのである。そして、何かの力が障害の上での特別な才能を啓発するのかもしれないのである。

 

結論

 

音楽とは、不思議なものである。唯の音なのに何故そんなに多くの生き物(動植物)たちに共感を与え続け、それのみならずそれらの生き物たちの成長に良い面でも悪い面でも大いに寄与していることか?そこに、音楽またはサウンドの存在価値があるのであろう。

 

その点については、今までの考察でその一部が証明されたのである。

 

それでは、本来の音とは?

 

ショーペンハウアー曰く:「この世界には人間に聞き取れない音や、目に見えない色が存在している。しかしながら、私はそれに声の限界を取り上げる。楽器にしても、人間のそれらの範囲内で作られたものであり、だいたい音楽という言葉自体人間が勝手に作り上げたものであり、音楽という存在自体もともとなかったのである。人間の聴覚・視覚等を超越するものが存在しているのであり、もしそれらが表現できたら、その時には現在存在している諸作品を超越した作品が生まれると断言する。本来の音とは、宇宙の究極的なもののひとつである。」。(注48)

 

 彼は、本来の音について宇宙に存在していると明言しているが、宇宙にはもともと音のない空間であるので、私は納得のいく文面ではないのである。

 

 つまり、宇宙は、音が存在しないといわれている。宇宙は真空状態で「音を伝える物がない」ので「音は伝わらない」のである。(音を伝えるものは、空気だけではないのである。 水、金属、ガラス、空気以外の気体でも音を伝える。固体、液体、気体は、どれも押されれば押し返す力が発生するので、音を伝えることができるのである。)
 
その根拠として、ギリシャの賢人であるプラトン曰く:音楽は自然に存在する物の調和の基礎であり、また宇宙における最高の統治ある。(注49)プラトンの自然の調和については、ストーが別の機会に述べている個所との相関性に気づくのである。少し長い文章であるが、重要な個所であるので、そのまま引用する。

 

「1934年の冬、南極大陸の前線気象観測地の要員として、たったひとりで南極に滞在することになったバード提督の日記には、:午後4時、氷点下89度(華氏)、いつものように散歩に出た。私は静寂に耳を澄まして立ち止った。昼は死に夜が生まれつつある。しかし、まことに静かである。ここには測り知れない宇宙の営みと力が、調和と静寂を保って存在している。調和、まさにそれだ!それは静寂から生まれてくるものだ。やさしいリズム、完全な和音の旋律、おそらくは天体の音楽。そのリズムを捕えれば、一瞬でも自分がその一部分になれば、それで充分であった。その瞬間、私は人間と宇宙の一体性に何の疑いも感じなった。その時確信したことは、そのリズムがあまりに秩序正しく、あまりに調和的で、まったくの幸福の産物とは思われないほど完全であるということ、それゆえにこの全体の中に目的があるに違いないということ、人間が偶然の派生物ではなく、その全体の中の一部であるということ、であった。それは、理性を超越する感情であった。」(注50)

 

つまり、音の存在を超越した宇宙の根源とは、静寂と完全な調和から生まれてくるのであり、人間もその宇宙の一部であるのみである。

 

では、音楽の存在性は、どこにあるのであろう?

 

本当は、音などは本来存在していないのではないだろうか?動植物たちの知識が勝手に作り上げたものではないのでないだろうか?音の存在認識は、動植物界の聴覚の役割を認識する機能が大いに関係があるのであろう?

 

音が存在したのに、突然音がなくなった時は、多くの人が静寂の中にいるというが、逆説的にいえば、前より一層の喧噪の世界に埋没したと言えるのではないだろうか?つまり、人間の脳の中では、音と音との間隔の空白に次に送るであろう期待を持って多くのことを思い巡らせて以前よりはるかに精神的・神経的に高まり激しく喧噪巡回しているのである。

 

芸術は、間(ま)が最重要要素であるが、それは静寂の世界ではなく、次にステップアップするために最速で走り出す姿なのである。つまり、音楽は、まさにその間の中に存在しているのである。ピカートの言葉を引用すれば、(注p29)沈黙という自然の世界よりも大いなる自然世界はない。・・・音楽の最後の響きが消え去った時ほど、沈黙がありありと聞こえてくることはない。(注51)・・・沈黙の中で初めて、人間と神の柲儀(ミステ―リウム)とが出会うのである。(注52)言葉が人間の本質をなすものであるように、沈黙は神の本質である。(注53)

 

 音楽は、音と沈黙との対話である。沈黙自身が音楽の中で力強く前面に現れる。(注54)

 

沈黙を宇宙で全能な力を持ち、宇宙の沈黙の先には、究極的な存在である「神」が鎮座しているのである。 

 

 

 

(脚注)

 

(1)アンソニ・ストー『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『1.音楽の起源と社会的機能』、27p~28p

 

(2)同上書、28p

 

(3)同上書、32p

 

(4)小泉文夫『音楽の根源にあるもの』、青土社、1978年3版発行、『日本語の音楽性』131p

 

(5)同上書、132p~133p

 

(6)同上書、『日本のリズム』34p

 

(7)同上書、『歌謡のおこり』76p

 

(8)同上書、『自然民族における音楽の発展』173p

 

(9)同上書、『日本のリズム』37p

 

(10)同上書、『日本のリズム』38p

 

(11)同上書、『諸芸のリズム』26p

 

(12)世界のフォークソング集

 

<和(集団)の曲集>

 

1)北海盆歌 ほっかいぼんうた

 

(エンヤーコーラヤ ハァ ドッコイジャンジャンコーラヤ♪ ドリフ「8時だョ!全員集合」オープニングテーマの原曲)

 

2)草津節

 

(草津よいとこ 一度はおいで ア ドッコイショ)

 

3)河内音頭 かわちおんど

 

(イヤコラセードッコイセー!鉄砲 光三郎による鉄砲節が有名)

 

4)斎太郎節(大漁唄い込み)

 

(松島の 瑞巌寺ほどの寺もない 石巻 其の名も高い日和山)

 

5)こきりこ節

 

(マドのサンサはデデレコデン ハレのサンサもデデレコデン)

 

6)ソーラン節

 

(ニシン来たかとカモメに問えば わたしゃ立つ鳥波に聞け)

 

7)お江戸日本橋

 

(お江戸日本橋七つ立ち 初上り 行列揃えてアレワイサノサ)

 

8)金比羅船々 こんぴらふねふね

 

(こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ

 

とらとら 虎々

 

とらとーら とーらとら♪ 日本の伝統的なお座敷遊び・お茶屋遊び)

 

9)花笠音頭(花笠踊り)

 

(揃ろた揃ろたよ 笠踊り揃ろた ハァ ヤッショーマカショ!)

 

10)安来節(やすぎぶし)

 

(どじょうすくいのルーツは、砂鉄を集める「土壌すくい」?)

 

11)炭坑節

 

(月が出た出た月が出た 三池炭坑の上に出た?)

 

12)東京音頭

 

(ハァー踊り踊るなら?丸の内生まれの東京音頭で夏を乗り切れ!)

 

<個の曲集>

 

1)オーソレミーオ(私の太陽)

 

帰れソレントへ

 

(ソレントの美しい自然と一人の男性の恋心を描くナポリ歌曲。)

 

2)忘れな草(私を忘れないで)

 

(私を忘れないで 君こそが我が人生 私を忘れないで)

 

3)カタリ・カタリ(つれない心)

 

(女性に捨てられた男性の深い悲しみを切々と歌い込む悲哀の歌。)

 

4)タイム・トゥ・セイ・グッバイ
Time To Say Goodbye

 

(盲目のテノール歌手ボチェッリとサラ・ブライトマンのデュエット曲)

 

5)クラリネットをこわしちゃった

 

(有名な「オ・パッキャマラード」のフレーズは、フランス語の歌詞では「Au
pas, camarade
(オ・パ、キャマラード)」の部分。)

 

6)三人の王の行進

 

(イエス・キリスト降誕を祝う東方の三博士マギの行進。ビゼー『アルルの女』の『ファランドール』でメロディが引用されている。)

 

7)月の光に

 

(月の光が照らす夜、ペンを探す男女が見出したものとは?)

 

8)森のくまさん

 

(くまは言った。「君、銃を持ってないみたいだけど、大丈夫?」)

 

9)茶色の小瓶(こびん)

 

(『茶色の小瓶
The Little Brown Jug
』は、グレンミラー楽団のジャズナンバーとしても有名。)

 

10)大きな栗の木の下で

 

(『大きな栗の木の下で』は、アメリカでボーイスカウトの歌として広まった曲(スカウト・ソング)。)

 

11)私を野球に連れてって
Take Me Out to the Ball Game

 

(ケイシーは大の野球好き。地元の野球チームを応援するためなら、貯金も使い果たしてしまう。)

 

http://www.worldfolksong.com/songbook/index.html (2014,3,24)

 

(13)小泉文夫『音楽の根源にあるもの』、青土社、1978年3版発行、『諸芸のリズム』24p

 

(14)同上書、『諸芸のリズム』29p

 

(15)同上書、『諸芸のリズム』30p

 

(16)重久 剛(編著)『比較文化論』、建帛社、昭和63年第3刷発行、『第5章比較心理・行動様式』200p

 

(17)岩崎秀夫「我が芸術論(本論・PART-:演劇論)、高崎商科大学「紀要」、第28号(2013年12月発行)、『結章』134p

 

(18)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『1.音楽の起源と社会的機能』30p

 

(19)アラン(本名:エミール・オ-ギュスト・シャルチエ)『諸芸術の体系』(桑原武夫訳)、岩波書店、1978年、『第4章詩的リズムについて』113p

 

(20)同上書、『2.音楽、脳、体』77p

 

(21)同上書、『2.音楽、脳、体』77p~79p

 

(22)「Romania Japan」(http://gipsy-romania.seesaa.net/article/84656214.html)(2014,5,2)

 

(23)「GUNKA」(http://www.geocities.jp/abm168/GUNKA/dokisakura.html

 

同期の桜)

 

貴様と俺とは 同期の桜  同じ兵学校の 庭に咲く

 

咲いた花なら 散るのは覚悟  みごと散りましょう  国のため

 

哀調を帯びた旋律で特攻隊員が好んで歌い次第に
 
兵隊ソングとして兵士間で流行り巷にも愛唱された

 

(24)阿部謹也『甦る中世ヨーロッパ』、日本エディタースクール出版部、1987年12月15日第5刷発行、『第11章中世の音の世界』29p

 

(25)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『1.音楽の起源と社会的機能』14p

 

(26)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』39p

 

(27)前章の「リズムの文化論」参照

 

(28)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『2.音楽、脳、体』49p

 

(29)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』16p

 

(30)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』18p

 

(31)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』19p

 

(32)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』18p

 

(33)コンラッド・ローレンツ『攻撃―悪の自然誌(1)』、(日高敏隆、久保和彦訳)みすず書房、1970年第3刷発行、『第三章・悪の役割』58p

 

(34)「卵のコラム」からhttp://www.isedelica.co.jp/info/column/column15.htm

 

 

 

 

(35)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『2.音楽、脳、体』49p

 

(36)同上書、『2.音楽、脳、体』50p

 

(37)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』11p

 

(38)同上書、『1.音楽の起源と社会的機能』28p

 

(39)杉浦健一『人類学』、一般教育叢書・同文館、昭和30年第11版発行、『第二章生物界におけるヒトの地位とその特性』18p~19p

 

(40)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『2.音楽、脳、体』55p

 

(41)アラン(本名:エミール・オ-ギュスト・シャルチエ)『諸芸術の体系』(桑原武夫訳)、岩波書店、1978年、『第9章音楽の諸様式について』171p

 

(42)同上書、『第10章音楽的表現について』175p

 

(43)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『5.現実からの逃避』171p

 

(44)「音楽療法WEBガイド」(http://www.daisakukawahara.net/010/0005.html)(2014.4.20)

 

(45)ロシアの大音楽家の名言

 

(46)長谷川千秋『ベートーベン』、岩波新書(No.16)、1975年第43刷発行、『つんぼについて』38p

 

(47)『ベートーベンマスター』

 

http://www.beethovenmaster.com/beethovenmaster/03kunou/kunou.html)(2014.4.5)

 

(48)アンソニ・ストー、『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』(佐藤由紀、大沢忠雄、黒川孝之訳)、白揚社、1994年、『7.世界の最も内奥にある本質』202p

 

(49)同上書、『2.音楽、脳、体』75p

 

(50)アンソニ・ストー、『孤独』、創元社、1999年第一版発行、『第三章孤独の効用』66p~67p

 

(51)ピカート『沈黙の世界』、(佐野利勝訳)、みすず書房、1971年15刷発行、『沈黙からの言葉の発生』20p~21P

 

(52)同上書、『沈黙と信仰』269p

 

(53)同上書、『沈黙と信仰』271p 

 

 

 

<参考文献>

 

(1)『音楽する精神:人はなぜ音楽を聴くのか?』アンソニ・ストー

 

(2)『音楽の根源にあるもの』小泉文夫

 

(3)『比較文化論』重久 剛(編著)

 

(4)『我が芸術論(本論・PART-:演劇論)』、高崎商科大学「紀要」岩崎秀夫

 

(5)『諸芸術の体系』アラン(本名:エミール・オ-ギュスト・シャルチエ)

 

(6)『甦る中世ヨーロッパ』阿部謹也

 

(7)『攻撃―悪の自然誌(1)』コンラッド・ローレンツ

 

(8)『人類学』杉浦健一

 

(9)『ベートーベン』長谷川千秋

 

(10)『孤独』アンソニ・ストー

 

(11)『沈黙の世界』ピカート

 

 

 

<引用・参考Webサイト>

 

(1) 「世界のフォークソング集」

 

http://www.worldfolksong.com/songbook/index.html 

 

(2)「Romania Japan

 

http://gipsy-romania.seesaa.net/article/84656214.html

 

(3)「GUNKA

 

http://www.geocities.jp/abm168/GUNKA/dokisakura.html

 

(4)「卵のコラム」

 

http://www.isedelica.co.jp/info/column/column15.htm

 

(5)「音楽療法WEBガイド」

 

http://www.daisakukawahara.net/010/0005.html

 

(6)『ベートーベンマスター』

 

http://www.beethovenmaster.com/beethovenmaster/03kunou/kunou.html

 

 

 

*本文中の下線部は、著者により加筆

 

 

 

 

国名

 
 

言語

 
 

読み方(ローマ字)

 
 

読み方(カタカナ)

 
 

日本

 
 

日本語

 
 

kokekokko-

 
 

コケコッコー

 
 

アメリカ

 
 

英語

 
 

cock-a-doole-do

 
 

クック  ドゥール ドゥ

 
 

ドイツ

 
 

ドイツ語

 
 

kikkireki

 
 

キッキレキ

 
 

フランス

 
 

フランス語

 
 

coquerico

 
 

コックェリコ

 
 

イタリア

 
 

イタリア語

 
 

cocorico(chichilichi)

 
 

ココリコ(キッキリキ)

 
 

スペイン

 
 

スペイン語

 
 

quiquiriqui

 
 

クィクィリクィ

 
 

ポルトガル

 
 

ポルトガル語

 
 

qui qui requi

 
 

クィ クィ レクィ

 
 

ロシア

 
 

キルリ語

 
 

kykapeky

 
 

クカレクー

 
 

朝鮮民主主義人民共和国

 
 

ハングル語

 
 

kockyo kuukuu kooko

 
 

コッキョ クウクウ コーコ

 
 

中華人民共和国

 
 

中国語

 
 

ko-ko-ke-

 
 

コーコーケー

 
 

インド

 
 

ヒンドスターニ語

 
 

cock-ro-roo

 
 

クックーローロー

 
 

 
 

アラビア語

 
 

cock-e-cocho-co

 
 

クックーエーココーコ

 
 

アルメニア

 
 

 
 

tsoogh ruooghoo

 
 

 
 

スリランカ

 
 

シンハニースの言葉

 
 

coock-a-coke-coke

 
 

コークーアーコケーコケ

 
 

ニュージーランド

 
 

マオリ族の言葉

 
 

kokekko

 
 

コケコッコ

 

« April 2014 | Main | July 2014 »

Recent Trackbacks

ウェブページ

September 2021
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30