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Monday, 09 January 2017

光彩論とは何か。

 

 

*更新中(執筆を続ける)

 

 

Chaos is infinit.

 Dixitque Deus: "Fiat lux!" Et facta est
lux.

神が「光ありき」と言ったら、そこに光ありき。(神は、宇宙全体と言い換えてもいいのではないか。)

現在まで、地球のような生命の存在する惑星は、天体の専門家の間では存在してないといわれている。確かに数多くの太陽系が他にも無数あるが、我々の太陽系の世界のようなものが存在しているか疑問である。では何故に我々のような太陽系を創造したのであろうか。尚且つ神はなぜ地球のような生命の存在する惑星を作ったのであろうか。太陽系の他の惑星、例えば地球に構造的に類似しているが生命の痕跡が見当たらない火星があり、または土星のような霧状で包まれている惑星等があるのみである。

では、どのような根拠で神は「光」を地球上に与えたのであろうか。暗闇でもよかったのでないか。何故に神は地球の表面の生き物に光を与えて、光の届かない深海の生命とは区別したのであろうか。見よ!深海の生命は、光の届かない場所でも生きているのである。もちろん目は日常では必要ではないので退化している。むしろ、神の意向であえて光を与えなったのでそれらの深海の生き物には目が退化したのである。いずれにしても、神は、この世界にすべての生き物を誕生させたのである。キリスト教の聖書の創世記にもそのように明記されている。

つきましては、光を与えられた生命体は、細胞の活性化を促し生きていることを自分で認識するのである。また、生命体の中で視覚を与えられた生命体は、自分の存在や周りの存在が認識されることが可能となったのである。もし、動植物界に太陽からの光がなかったとしたら、短命に終わったであろう。そして、光によって生命のある生き物、特に人間界にとって喜び・悲しみ・怒りとかの感情が沸くように仕向けることが可能となった。宇宙へロケットを飛ばすまでの人間の知力を作り上げるまでに可能としたのである。また、皮肉にも核爆弾を作り上げて、神の芸術品である地球をも破壊できるレベルに達したのである。換言すれば、光を認識できない方が、平和であったのでないであろうか。もちろん、深海の生命が平和であるとは誰も確信を持って断言はできないのであるが。あくまでも想像の世界でのことである。また、人間が光を確認できる眼球を作ったことによって争いが起こったのかもしれない。人間が外界を認識できない盲目の場合は、戦争も起こらなかったであろうし、静寂の世界が存在したのであろうと想像すのである。また、目が見えなければ、殺傷力のある兵器などの想像されなったのである。???

次に、仮説であるが、神は「外界の光」と「内界の光」を創造したのかもしれない。

生存的な観点からは、一般に太陽の光がなければ、地球上のすべての生命が死んでしまうと言われているが、なにゆえ、光の届かない深海でもある種の動植物は生きているのであろうか。わずかな光が深海にも届いているのであろう。もしかすると、天界の神とは違っていわゆるギリシャ神話に登場するポセイドンの海の神が存在しているのかもしれない。しかしながら、それも想像の彼方である。

いずれにしても、地球上の生き物は太陽の光で生命が生かされているのである。そして、存在している。但し、光のみで生命が存在しているのではない。水がなければ生きることができない。最近大きな発見をしたことは、灰皿の中にわずかな水を入れてたばこの灰を入れて数日たつと小さな生き物が生存しているのを見つけた。たばこは有害なので生物は発生しないと信じていたがその仮説を覆したのである。つまり、どんな有害な環境の中でも水がある限り生命は誕生するのである。

つまり、太陽の光の温度と水があれば、生命はどのような姿であれ生まれてくるのである。

そのような組成で人間という生命像が生まれたのであろう。ただ生命像が造られたのみでは、「外界の表現形式」は生成されるが「内面の表現形式」は作られない。

人間と人間以外の動植物の大きな違いは、脳と言う神秘の臓器があるものを作り上げるかどうかの違いによる。

外界の影響で内面に影響を与え、諸形式の表現が可能になる「芸術」は、まさに他の動植物ではなしえない人間の特有の才能である。

確かに、人間以外の自然界の形成物は、自然の美と言われる造形物を作り上げるのであるが、それらはすべて自分の意思の発露ではなく、自然の摂理(リズム)に従ってのことである。

結局は、人間は自分の意志に従って作り上げるのである。ある意味では「光」と「内面の光」が呼応して芸術の領域が生まれたと言える。換言すれば、「人間の内面の表現する鏡」が存在しなければ、「芸術」も生まれないのである。

では、光のないところでは、「芸術」は生まれないのであろうか。

 

 

 

人間界でも盲目の人は、光を視界では見ることができないがどうして多くの盲目の人は、人間の歴史の中で数多くの芸術と言われる領域の偉業を成し遂げることができたのであろうか。それの答えは、心の光で感じとっているのであろう。画家の世界では、盲目は致命的であり、また実際ごく少数である。たとえば、エスレフ・アーマガン(63歳)というトルコ在住の画家がいる(1)

 

 

 

確かに、絵画だけを見てみると真っ暗なものは存在しないのである。しかしながら、ダークの絵画も存在するのである。たとえば、オランダ生まれの絵画の巨匠レンブラントは、明(光)だけではなく暗(シャドウ)の重要性を表現している。他にも「暗」を使って表現していた芸儒家は数多く存在する。

 

 

 

音楽の世界に話を移すと真っ暗という表現が的確ではないが、視点を目(視覚)から耳(聴覚)に視点を変えてみると、音の表現を通じて何も音が存在しないことがそれに当たるのではないでしょうか。いずれにしても、音楽の無音の羅列は存在しないのである。つまり、「光」と「音楽」との相関性を述べるのは不可能である。否、ベートーヴェンは、絵を描く画家が「視覚」が創作に必要不可欠と同様に音楽家には、聴覚を失うと致命的である。しかしながら、ベートーヴェンは、1796年頃から聴覚に変調を来しその聴覚を喪失してからはむしろ数多くの音楽作品を書き上げたのである。確かに、彼の喪失による落胆は、想像の域を超えていると思われる。彼は、伝記の中で「私には何も聞こえないとき、彼には牧人の歌が聞こえて、いつも私には何も聞こえないとき、何という恥ずかしさだろう。()私は危うく自分の命を絶とうとした。私を引き止めたのは、藝術だった。」(2)

 

 

 

 

 

 

 

いずれにしても、光が芸術(特に絵画の世界)を組成したと言っても過言ではないのである。

 

 

 

多くの芸術家は、光を通じて芸術作品にいろいろな色彩を添え来たのである。只、「光」と一言でいえるものではなく、光には「人工の光」と「自然の光」が存在するのである。それらの相違は、芸術の解釈に相違を与えるのである。つまり、前者のそれは、人間が創作したものであり、いくらでも変形のものが作られ、また多様な芸術の解釈が可能であり、何か浅薄感を与え、他方、後者のそれは人間の入り込めない領域であり絶対的な一つの解釈が存在するのみである。前者の事例として、取り上げたいのが協会内部のステンドグラスの絵である。あれはまさしく、「真実の自然の光」と「人間が描いた絵」との調和を作り上げたと言えるのではないか。つまり、人間の感性のフィルターを通じては多様な解釈が成り立つというかもしれない。しかしながら、主観的な観点からは、芸術の解釈は一つなのである。ここで、また新たな課題が浮き彫りにされたのである。つまり、芸術の主観的な解釈と他者による客観的のそれとの違いは何なのか。

 

 

 

人工的な芸術と自然のそれとは、別に乖離するものではなく自分が良しとすればそれでいいのではないのか。つまり、その作品に対して主観的・客観的解釈が必要でないのである。概して人間は、欲の動物と言われる。

 

 

 

また、人間、特に何かで表現しようとする芸術家は、自然界の春分、秋分、夏至、冬至の各時期に太陽が短く又は長く当たる地球によって、絵画や音楽の表現に影響を与えたと言える。例えば、春分では明るく元気な表現をするし、秋分では、明るい感じから多少くらい印象を持ち、そのような中で藝術が活躍するのである。つまり、季節の変動がなければそれが生まれなかったのである。

 

 

 

また、すべての地球上の動植物、広く言えば自然界に影響を与え続けた中で芸術が生まれたと言っても過言でないのである。たとえば、絵画一つを例に挙がれば、レンブラントの絵は、明暗を操りながら筆を走らせたのである。

 

 

 

 

 

 

 

いわゆる音楽以外の芸術家は、光の屈折によって色分けや角度を考えて描くのである。つまり、それぞれの人間の鏡の感受性のフィルターを通して絵を描き、石や木に彫刻をし、泥で焼き物を作り、その他音楽以外の芸術作品を生み出しのである。

 

 

 

しかしながら、私には一つの疑問が沸いてくるのである。光によって音楽さ絵も光の恩恵を受けてるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

教会建築には、何故に光を必要としたのか?

 

 

 

 

 

 

 

(続く)

 

 

 

(注釈)

 

 

 

(1)その形、色も見た通りそのままでは?
と思えるくらいスゴい絵を描き上げるわけだが、これは彼の持つ、人知を超えた触覚と数多くの経験に基づく色彩イメージがなせる技だと考えずにはいられない。小さい頃からこの天才的な絵画能力があったかといえば、それは否で、彼が画家になりたいがために35年間も努力してきたことがその証拠でもある。しかしながら、その35年の間に彼は、画家になりたいという熱い想いを胸に、自分が触った物体の感触と、その物の形と色彩を結びつける訓練を積んでいたのではないかと思う。一般的な絵の描き方を習得するのはもちろんのことだろうが、目が見えない彼にとって写実的な絵を描くとは、物体の感触から、その具体的なイメージを、より広く認識されている状態に近づけることだったのではないだろうか。小さいころから物の感触をもとに絵を描いては、人に見せ、実際の見た目との違いを教えてもらっていたのかもしれないし、はたまた別な方法で自分のイメージと現実との差異を埋めていったのかもしれない。そして、目の代わりとなる触覚についても、ミクロン単位の微妙な差異を感じ取れるほどの発達を遂げたのだと思う。目が見えなくとも見えるということ、しかしこうして現実のイメージに自分の脳内イメージを近づけていくことで、目が見えずとも、彼の視覚は確保されるのである。絵が完成した瞬間に彼の見ている景色は開け、その景色は、私たちが見ている現実よりも一層美麗で鮮やかなのかもしれない。そう考えると、彼の見ている世界は、どんなものなのだろう、と目が見えている私たちの方が彼の見ている景色を気にするのである。

 

 

 

※彼が描いた作品は、こちらにまとめられています※

 

 

 

 http://matome.naver.jp/odai/2140478463942380301

 

 

 

http://wadainotansu.com/wp/2195.html#i

 

 

 

 

 

 

 

(2)「ベートーヴェン」(p38)長谷川千秋著、岩波新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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