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Sunday, 30 September 2018

私の青春時代

この度プログヘ私の気の向くまま書き込みをしてゆこうと思います。とりあえず、興味のある方は、私の芸能人公式ホームページをご覧いただければ幸いです。

http://homepage3.nifty.com/I-I-A-JAPAN/)

私が60年生きてきたが、最近「自分の生きざま」について考えてみると、どうしても大学時代のいろいろの場面が脳裏をよぎります。
私は、2つの大学を入学し、ひとつは卒業しました。最初の大学は、東京の中央大学で私は、高校ごろから世界の歴史が好きになり、20世紀の歴史学の巨人と言われる英国の歴史家アーノルド・トインビーや大哲学者シュペングラーから大きな影響を受け、その大学で西欧の歴史学を専攻しました。当時、中央大学史学部は、定員数の約50倍の受験希望者で難関といわれていました。
なぜ私が、その大学を選んだかといえばよい就職先の会社へ入りたいためではなく、その大学に歴史学で有名な教授が在籍していたからなのです。今の大学進学者の方は、大学は学問の場であるとの認識があまりなく優良会社へ就職するためのワンステップと思っている方が多いのではないかと推測いたします。東京大学や早稲田大学や慶応大学へ入れば、将来が決まったように思っていることでしょう。残念ながら、どの大学に入学しても入ったあとは「遊ぶ」ことに専念してしまうということです。
そのような現状であれば、どの大学の学生でもみな同じレベルになってしまうのです。残念ながら、「学問勉学」する学生さんが大変少ないのが趨勢に思われます。私自身、いくつかの大学で教壇に立った経験がありますが、多くの学生さんはあまり勉学に取り組むことが少ないように思われました。
私自身、先ほども申し上げましたように、私は、著名な教授がいれば、どの大学でもよかったのです。勿論、私もあまり勉学をしませんでしたが、できる限りいろいろなことに問題意識を持ち、できる限り図書館へ通ったものでした。
ところで、私の大学生時代は、1970年代で大学紛争がまだ激しい時代で、教室で授業を受けていると、突然過激派の学生さんたちがなだれ込んで、われわれノンポリの学生は、教室から出ることができない状態になり、恐怖にさらされました。結局、授業があるときに大学に行っても大学が閉鎖になって(図書館は開館していましたが)授業にならなく、掲示板にはいつも「レポートを提出すること」と書いてありました。毎日が自宅待機と図書館通いで私自身大学に対して魅力を感じなくなり、最終的には1年で大学を自己退学しました。
次に退学後、2年間ほど社会で働いていましたが、どうしても大学に戻りもう一度勉強をしてみたい気持ちが続き、2年後に学園紛争のない静かな大学がないか書店でいろいろな大学の案内書を見ていると「獨協大学」の案内書が目に止まり、埼玉まで入学試験に行きました。獨協大学だけ受験し、もしこの大学で不合格になったらもう大学を辞めようと思いましたが、幸運にも入学が許可されました。
今でも覚えていますが、その入学許可書を亡き父の墓前に添えたこと。父について少しお話をしますと、父は栃木県で農業に従事してましたが、父の母が他界してから東京へ出て、父は叔父を頼って叔父が経営していた印刷会社で働き始めたとのことです。母と結婚をし何年かして自分で印刷会社を経営するようになり、われわれ兄弟が生まれました。
父は,寡黙な人で仕事を黙々と毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしていました。私の脳裏には、父がいつも仕事場にいる記憶しかありません。
話が父のことで深入りそうなので本題の私自身の話へ戻ると、昼間は、授業と図書館かよいで夜は生活のために東京で喫茶店のウェイターのアルバイトをしていました。毎日がめまぐるしく過ぎてゆき、自分自身の存在が消えそうになりました。図書館で机に向かっているときやふとその窓から見える外界の景色を見ているとき一瞬の存在感を感じたものでした。

時のたつのは早いもので、入学して1年生のとき私の人生での大きな節目に出会ったのです。私は、そのころ、このまま大学を卒業するのは、あまりに意味がないように感じ何か自分でできるものはないかと模索していたのです。
どこでかは忘れましたが、あるポスターが目に留まったのです。文部省の管轄のJYVA(日本奉仕協会)主催の「夏の国内ボランティアー活動に参加しませんか?」とかいう趣旨のもので場所は、全国指定の施設がある、宿泊費、食事代、交通費等すべて支給。私は、旅行気分のつもりで九州の佐賀にある老人ホームに40日ほど滞在しました。その前に事前研修があり何人かの人と同じ派遣先になり私がリーダーに指名されてしまいました。私の提案の「老人ホームと地域住民との架け橋」というテーマで行くことになりました。現地に着くと、早速施設の職員の方が車で駅まで迎えていただき、私にとって生まれて始めてその施設に訪れたのです。
そこでの生活は、私にとって一生忘れることができない体験になったのです。
最初に「テーマに基づい何をすればよいのか」私には見当がつかなかったのです。主催のJYVAでは、特に何も指示されなかったのです。つまり、自分で主体的に考えて行動することが、このプログラムのねらいであったように思われました。また、私自身リーダーを指名されましたので、ほかの数名の仲間に指示をしなければと思ったのです。結局、次のような活動をしたのでした。つまり、地域の住民の方々方への「にこにこ新聞」の発行、それの地域の方への配布、人形劇の制作、開催。その他いろいろの活動を通じて、地域とホームの橋渡しができたのではないかと信じています。
そこの施設での自作の詩
「昨年の春、僕が遊びに行くと必ずおじいちゃんおばあちゃんが笑顔で迎えてくれました。
しわくちゃの手で一生懸命に針仕事をしているおばあちゃん、その部屋で僕がふと見ると、おばあちゃんの孫の写真、
いまは、そのおばあちゃんは、もういない
僕はひとり施設の納骨堂の前で涙する。」

大学生の2・3年生と2年間にわたり同じ場所に伺ったのですが、3年生の時に再伺ったときには、残念ながら多くの知りあったご年配の方々が、すでに他界していたのです。人間の命のはかなさを感じるとともに出会いの時間の大切さを痛切に感じた次第です。
それから、私自身で「留学生の日本での家庭滞在プロジェクト」を立ち上げたのです。(私の立ち上げたその組織のパンフレットは、ココログのフォト欄でご覧いただけます。)
多くの方々の協力のもとに、実施できました。例えば、東北の花巻市の方、四日市・尾鷲市のホームスティーの方々、また、留学生に呼びかけていただいた京都大学、名古屋大学早稲田大学その他の大学の留学生課の担当者の方々の協力の下に私の構想でありました「留学生の日本での家庭滞在」が数年間続いたのです。

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