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俳優:岩崎秀夫の素顔

  • 著名な政治アナリストである伊藤惇夫氏と私。
    私の好きなスケッチです。

Saturday, 02 February 2019

私の思い出

<秋>
僕の部屋に秋の木漏れ日が差し込む
あの頃の学生時代が思い出される
授業が終わったあと、君と二人きり教室に
君は「あなた」を歌い、僕が聞いていたね

君と夕闇の中を階段を一段々々降りる途中
僕の肩が君の肩に軽く触れ
言葉を言わずに君を強く抱きしめたい気持ちでした
でも、何もせず暗闇になかで別れましたね

卒業式の日、君に一言何かを言おうとしたが
隣に男性がいたので言葉を失ってしまった

あれから20年以上の月日が過ぎたある日
新宿の私鉄沿線の中で突然、君と再会したね
最初は君とは分からなかった

じっと見つめ合い、それから
一言、お互いに名前を交わしただけで
続きの言葉を探したが見つからず
彼女が下りた駅の扉が無情にも静かに閉まりました

神様のいたずらなのか
そのような再会ならしたくなかった
僕らの青春の日々よ
さようなら
ほんとうにさようなら
サヨウナラーーーーーー
(2002年10月14日の落書き帳から)

(続く)

Sunday, 30 September 2018

私の青春時代

この度プログヘ私の気の向くまま書き込みをしてゆこうと思います。とりあえず、興味のある方は、私の芸能人公式ホームページをご覧いただければ幸いです。

http://homepage3.nifty.com/I-I-A-JAPAN/)

私が60年生きてきたが、最近「自分の生きざま」について考えてみると、どうしても大学時代のいろいろの場面が脳裏をよぎります。
私は、2つの大学を入学し、ひとつは卒業しました。最初の大学は、東京の中央大学で私は、高校ごろから世界の歴史が好きになり、20世紀の歴史学の巨人と言われる英国の歴史家アーノルド・トインビーや大哲学者シュペングラーから大きな影響を受け、その大学で西欧の歴史学を専攻しました。当時、中央大学史学部は、定員数の約50倍の受験希望者で難関といわれていました。
なぜ私が、その大学を選んだかといえばよい就職先の会社へ入りたいためではなく、その大学に歴史学で有名な教授が在籍していたからなのです。今の大学進学者の方は、大学は学問の場であるとの認識があまりなく優良会社へ就職するためのワンステップと思っている方が多いのではないかと推測いたします。東京大学や早稲田大学や慶応大学へ入れば、将来が決まったように思っていることでしょう。残念ながら、どの大学に入学しても入ったあとは「遊ぶ」ことに専念してしまうということです。
そのような現状であれば、どの大学の学生でもみな同じレベルになってしまうのです。残念ながら、「学問勉学」する学生さんが大変少ないのが趨勢に思われます。私自身、いくつかの大学で教壇に立った経験がありますが、多くの学生さんはあまり勉学に取り組むことが少ないように思われました。
私自身、先ほども申し上げましたように、私は、著名な教授がいれば、どの大学でもよかったのです。勿論、私もあまり勉学をしませんでしたが、できる限りいろいろなことに問題意識を持ち、できる限り図書館へ通ったものでした。
ところで、私の大学生時代は、1970年代で大学紛争がまだ激しい時代で、教室で授業を受けていると、突然過激派の学生さんたちがなだれ込んで、われわれノンポリの学生は、教室から出ることができない状態になり、恐怖にさらされました。結局、授業があるときに大学に行っても大学が閉鎖になって(図書館は開館していましたが)授業にならなく、掲示板にはいつも「レポートを提出すること」と書いてありました。毎日が自宅待機と図書館通いで私自身大学に対して魅力を感じなくなり、最終的には1年で大学を自己退学しました。
次に退学後、2年間ほど社会で働いていましたが、どうしても大学に戻りもう一度勉強をしてみたい気持ちが続き、2年後に学園紛争のない静かな大学がないか書店でいろいろな大学の案内書を見ていると「獨協大学」の案内書が目に止まり、埼玉まで入学試験に行きました。獨協大学だけ受験し、もしこの大学で不合格になったらもう大学を辞めようと思いましたが、幸運にも入学が許可されました。
今でも覚えていますが、その入学許可書を亡き父の墓前に添えたこと。父について少しお話をしますと、父は栃木県で農業に従事してましたが、父の母が他界してから東京へ出て、父は叔父を頼って叔父が経営していた印刷会社で働き始めたとのことです。母と結婚をし何年かして自分で印刷会社を経営するようになり、われわれ兄弟が生まれました。
父は,寡黙な人で仕事を黙々と毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしていました。私の脳裏には、父がいつも仕事場にいる記憶しかありません。
話が父のことで深入りそうなので本題の私自身の話へ戻ると、昼間は、授業と図書館かよいで夜は生活のために東京で喫茶店のウェイターのアルバイトをしていました。毎日がめまぐるしく過ぎてゆき、自分自身の存在が消えそうになりました。図書館で机に向かっているときやふとその窓から見える外界の景色を見ているとき一瞬の存在感を感じたものでした。

時のたつのは早いもので、入学して1年生のとき私の人生での大きな節目に出会ったのです。私は、そのころ、このまま大学を卒業するのは、あまりに意味がないように感じ何か自分でできるものはないかと模索していたのです。
どこでかは忘れましたが、あるポスターが目に留まったのです。文部省の管轄のJYVA(日本奉仕協会)主催の「夏の国内ボランティアー活動に参加しませんか?」とかいう趣旨のもので場所は、全国指定の施設がある、宿泊費、食事代、交通費等すべて支給。私は、旅行気分のつもりで九州の佐賀にある老人ホームに40日ほど滞在しました。その前に事前研修があり何人かの人と同じ派遣先になり私がリーダーに指名されてしまいました。私の提案の「老人ホームと地域住民との架け橋」というテーマで行くことになりました。現地に着くと、早速施設の職員の方が車で駅まで迎えていただき、私にとって生まれて始めてその施設に訪れたのです。
そこでの生活は、私にとって一生忘れることができない体験になったのです。
最初に「テーマに基づい何をすればよいのか」私には見当がつかなかったのです。主催のJYVAでは、特に何も指示されなかったのです。つまり、自分で主体的に考えて行動することが、このプログラムのねらいであったように思われました。また、私自身リーダーを指名されましたので、ほかの数名の仲間に指示をしなければと思ったのです。結局、次のような活動をしたのでした。つまり、地域の住民の方々方への「にこにこ新聞」の発行、それの地域の方への配布、人形劇の制作、開催。その他いろいろの活動を通じて、地域とホームの橋渡しができたのではないかと信じています。
そこの施設での自作の詩
「昨年の春、僕が遊びに行くと必ずおじいちゃんおばあちゃんが笑顔で迎えてくれました。
しわくちゃの手で一生懸命に針仕事をしているおばあちゃん、その部屋で僕がふと見ると、おばあちゃんの孫の写真、
いまは、そのおばあちゃんは、もういない
僕はひとり施設の納骨堂の前で涙する。」

大学生の2・3年生と2年間にわたり同じ場所に伺ったのですが、3年生の時に再伺ったときには、残念ながら多くの知りあったご年配の方々が、すでに他界していたのです。人間の命のはかなさを感じるとともに出会いの時間の大切さを痛切に感じた次第です。
それから、私自身で「留学生の日本での家庭滞在プロジェクト」を立ち上げたのです。(私の立ち上げたその組織のパンフレットは、ココログのフォト欄でご覧いただけます。)
多くの方々の協力のもとに、実施できました。例えば、東北の花巻市の方、四日市・尾鷲市のホームスティーの方々、また、留学生に呼びかけていただいた京都大学、名古屋大学早稲田大学その他の大学の留学生課の担当者の方々の協力の下に私の構想でありました「留学生の日本での家庭滞在」が数年間続いたのです。

Sunday, 20 April 2014

少し早いクリスマス(私の落書き帖より)

「クリスマス」

1)クリスマスが近づいてくる
 
 

 ボクの心には、何もキャンドルの光が灯らない

 東京の街を歩いているとクリスマスのネオンサインがにぎやかに光っている

 一通のクリスマスカードに‘ボクからのメッセージ‘を送ろうと

 ずーと胸のポケットにカードをしまっている

 いつ出そうか…、いつにしようかと思い悩んでいる

 そうしているうちにクリスマスが近づいてくる

2)クリスマスが近づいてくる

 ボクの心にはクリスマスの光が灯らない

 今のボクには、クリスマスのネオンが悲しく思われる

 電話をしようか?‘ボクからのメッセージ‘を送ろうか?

 いくつもの電話ボックスの前を通り過ぎる

 独りコーヒーショップに入ってコーヒーを飲みながら

 何を電話で話そうかと考える

 今のボクには、クリスマスが悲しすぎる

3)もうクリスマスなんかいらない

 もう忘れたい

 雪の中に自分の体全体沈めたい

 もう忘れたい

 どこか遠くへ行きたい

 もう忘れたい

 もう忘れたい

             (1994年12月15日10:00pm記す)

 

Thursday, 28 March 2013

著名な須田慎一郎様と著名ではない(?)私とのツーショット(習志野市の交流会)

Img_5713_2





平成25年3月12日(火)午後4時から~

著名な経済ジャーナリスト

須田慎一郎氏の講演会

主催:習志野商工会議所

*講演後の交流会での写真です。

私のコメント:須田氏は、お人柄が素晴らしい方でした。

Saturday, 23 March 2013

Who is Rom ?( (MY STUDY-NOTE)

流浪の民といわれるロム(通称:ジプシー)とは、どのような民族なのか?

フラメンコ音楽を通じてのヒターノ(ジプシー)の存在の考察

 

Who is Rom as the people like the windy-drifting paper?

The analysis of the Gitano judging from the Flamenco music

 

所属:高崎商科大学

氏名:岩崎秀夫

NameHideo Iwasaki

E-maili-int.l-association@nifty.com

 

キーワード : ロム、犯罪、迫害、音楽、自由人

Keywords : Rom, crime, persecution, music, non-confined-people


現状

ヨーロッパでは、多くの国々でジプシーによる犯罪が続いている。

日本人の被害例(ルーマニアの場合)

(ア)観光目的で訪れた男性が、ブカレスト市内のノルド駅に到着した際、同駅構内でいきなり何者かに押し倒され、同人が倒れている間に所持していた現金入りのスポーツバッグを強奪された。

(イ)観光目的で訪れた男性が、ノルド駅に到着した際、同駅構内で親切心を装ったルーマニア人風の男に声を掛けられた。同男はこの地区は危ないから安全な地区まで車で送る等言葉巧みに同男性を騙し、仲間

のタクシーに乗車させ、その後、法外な車代を要求した。

(ウ)在留邦人の男性が公共交通機関(バス)に乗車中、ジプシーらしき服装の女性らに周りを取り囲まれ、同女らのうちの一人に胸ポケットに入れておいた多額の現金をすられた。

(エ)観光目的で訪れた女性が、ノルド駅に到着した際、同駅構内で男に声を掛けられ、仲間のタクシーに乗せられブルガリアの国境近くまで連れて行かれた。その途中、同男は車代等の名目で多額の現金を請求し、同女性から現金を騙し取った。

(オ)在留邦人の男性が、深夜、帰宅途中にジプシー風の女性に声を掛けられ、ズボンの後ろポケットに入れておいた現金入りの財布をすられた。(注1

 

2 問題意識と先行研究

ヨーロッパへ旅行する旅行者が頻繁にジプシーから被害(スリ・盗難)を蒙り、それに遭遇して初めて「ジプシー」の存在を知ることが多いと思います。また中世のヨーロッパ地域ではヨーロッパの人口の3分の1の住民が死亡したと言われる疫病「ペスト」が蔓延していたとき、その原因の主犯グループとしてユダヤ人・魔術師のみならず「ジプシー」も悪漢としてキリスト教徒から告発されたのです。

我々からすると「ジプシー」は悪者と見做しますが、本当にその民族はそのような性癖の人々なのでしょうか?

そこで、「ジプシーとは何か?」の疑問に、民族的・歴史的・人類学的・遺伝的な視点から分析すると同時に、またジプシー音楽と言われている「フラメンコ」音楽を通じて考察し、彼らの「実像」の解明を試みます。(但し、残念ながら、ジプシーは本来文字文化を持たない民族ありますので、彼ら自身による記述の記録がありませんので、研究者からの文献を検討。)

始めに現在のジプシーの人口分布の紹介を通じて検証したいと思います。また、近年ではEU統合に伴う移動の制限の廃止により、スペイン、イタリアなど国によってはルーマニアからの移民が増えているが、その中にはジプシーの移動も多く含まれていると考えられる。(注2)

民族的には、現在でも不明あるが、しかしながら、多くの歴史学者によると、彼らの言語がサンスクリット(梵語)に起源を持っているので、たぶん今日のインドやパキスタンに住んでいるジプシー部族と類似しているのではないかといわれている。

遺伝的な血液型から概観しますと、ジプシーはB型優位の民族であり、同じ血液型の民族としてインド人、アイヌがあげられます。血液型から見た性格として○マイペース型○他人の思惑、常識、習慣をあまり意識せず、思うところをストレートに実行○自由奔放で規則破りの名人○楽天的な人々と分析されるようです。B型の民族は、一般に迫害される民族との関連性が理解できる。

歴史的にはジプシー民族は、迫害の連続といっても過言ではないかと思われる。(3)

社会人類学の見地からは、インドのカースト制により職業が決められたように、ジプシーの世界でもそれぞれの世界で職業が決められ、その世界の存在の維持に役立っている。(4)

いずれにしてもそのような苦難の歴史から、彼らが自分らを現実から少しでも忘却の世界で音楽に安堵を見出したのは必然のことであったと思われます。ある意味では、ジャズ音楽の発生との類似性を感じるのです。ジプシーの一族が、過去にスペイン地域へ渡り、スペインの土との同化を通じて本来のジプシーの音楽とは異なる新たな音楽が生まれ、フラメンコ音楽が生まれたと推測いたします。(5)ジプシーは、ある意味では芸術性に才能を発揮したように思われる。(注6)

彼らの抑圧された迫害の歴史の中から生まれたカンテ(歌)を紹介。

”フラメンコ音楽のカルセラーレ(牢獄の歌)”

ねござの上に腰を下ろし、頭起こし唖然と、

思い出すのは我が母、我が子、今も元気でいるだろうか?

このわずかな歌の中に絶望感と計り知れない空虚感が表現されているのである。

3 結論

本来の彼らは、人間界を超越した存在であり、大自然の中に生きていたのであり、そして宇宙と呼吸していたのである。我々は、彼らの生き方に大いに学ぶものあるのだ。つまり、自然の中心として我々人間界が存在していることの認識は、あまりにも自然や神に対する傲慢な姿勢であり、また大変な錯覚である。このような傲慢な考えによって、近い将来必ずや『大自然の制裁』が起こることを危惧する次第である。

ところで、現在、彼らの多くは、手仕事によって生活をしている。ここで注目することは、地球を移動する彼らにとっての一番好まれる仕事は、四六時中拘束されない「季節労動」といわれている。彼らの気質というか本質のところというか『自然界に漂流する民』と痛感する。何か彼らを形容するとすれば、大自然と同じに過去を振り返らずに、また未来を心配せずに、つまり現在の自然の流れ・雲の流れ・星の流れに身を任せて漂っている存在である。彼らは、自然のとの一体感の中で毎日生活している。そのような解釈の上に立つと、フラメンコ音楽のリズムの一つである『アレグリーアス』の明るく現在肯定的な、また刹那的な享楽を表現した形式が生まれたのが納得できる。「DUENDE」(注7)の存在も何か自然界の霊的なものを指しているように思われる。つまり、「神的な存在」なものではないかと想像する。彼らは、言語の一般的な呼び名は、スペインでは「ジプシー」と呼ばれなく、「Gitano(ヒターノ―)」と呼ばれている。

フランスのパリに行ったことのある観光客の人々は、『ああ、現地のガイドさんから注意するように言われたあの連中か!あの泥棒とか乞食とか言われている連中か!』と言われている一族です。確かに彼らの中には、盗みや物乞いをする人もいますが、それを見て彼らの全体像であるというのは、あまりにも偏狭的な見方であると思われる。彼らの多くは、何がしかの仕事をしながら生活をしている。先ほど言及した季節労働者として大半のジプシーたちは従事している。以上の記述から彼らに対する偏見が少しでもなくなり、彼らの本来の姿が見えてくると言えると思う。

 

 

(注1)外務省海外安全ホームページhttp://www.mofa.go.jp/anzen/

(注2)現在のジプシーの人口分から紹介(別紙参照)

水谷驍「ジプシー 歴史・社会・文化 」平凡社(2006)によれば、ジプシーの推定人口はヨーロッパ全体で560万人~886万人と幅がある。人口比は0.791.25%である。ヨーロッパ以外では米国に100万人前後というのが通説であり、中東(トルコに35万人という説あり)を除くアジア、及びアフリカにはほとんどいないので、世界全体で約1000万人と見積もられる。

ジプシーと呼ばれる集団は、中東欧のスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアといったドナウ川下流地域やバルカン半島、西欧ではスペイン、フランス、そして大西洋を渡って米国に多く分布している。中東欧では人口の1割程度にも達する国が複数ある。

(注―3)「ジプシー」という存在は、時と場所を選ばず社会から疎外・無視され迫害された民族であり、例えば、第二次世界大戦時ヨーロッパを占領したナチスドイツによるロマ民族に対する試みは、悲惨極まるものでした。ロマ民族の言葉であるロマニ語でポライモス(Porajmos)~食らい尽くす、絶滅させる~というジプシー絶滅政策は、ヨーロッパに住む多くのロマ民族が殺されました。その数は正確には把握することができなく、1939年の欧州におけるロマ人口885千人(推定値)のうち25万から50万人殺された。この時期のロマ人口をより上記より多く見積もり、100万人から400万人殺されたと云われる。

ナチス占領下の欧州で全ロマの7080%殺された。

この数値のどれが本当なのかは不明ですが、この時期にポーランドのアウシュビッツなどの収容所でユダヤ人ゲットーの中に「ジプシー・ゲットー」という区域が存在していたのはまぎれもない事実のようです。

この収容所で行われていたのは、強制労働・人体実験・毒ガスによる集団虐殺などユダヤ人のホロコーストと同様のことでした。戦後、ロマに対するポライモスの事実はユダヤ人の場合と違い、明らかにされることなく補償も無視され続けてきました。

HPRomania Japan」から引用

http://gipsy-romania.seesaa.net/article/84656214.html

(注4)音楽部族、金物細工部族、籠作り部族、馬など運搬用の動物を飼育する部族など

(フラメンコの芸術)現在ギター2月増刊号、D.E.ポーレン著、青木和美訳、P44~P45

5)この新しく進入してきたジプシー達にフラメンコの起源を見いだすのであれば、ヨーロッパ各地に移り住んだ彼等の文化が、現在、なにもスペインだけの文化で無くとも他の国々にもあって良さそうではないか、と言う疑問が出てきそうですが、ここで大事なのは、新しい土地へ新しい文化が流れ込んできた時に、その文化単独での発展はあり得ないと言うことでしょう。その新しい土地にもとから存在した土着の文化と混じり合うためにその地でしかありえない独特の変化発展を遂げていくものです。ここで注目したいのが実際、ジプシー達が進入してきた時代、このスペインと言う国にどのような文化がすでに存在していたか、と言う点です。 ここイベリア半島では、ちょうどその時代、大きな文化の流れが3つ程入り乱れていたのです。一つはキリスト教徒の文化、一つはイスラム教徒の文化、そして、もう一つが、ユダヤ教徒の文化です。そこへまたしても新しいジプシーの文化が入り込んできたと言う訳です。結果、ここで4つの違った文化が、ぶつかり合い、混じり合い、お互いに強い影響を与えあったがために、他の地ではあり得なかったような多種多様な独特の変化発展を遂げて出来上がっていったのが現在のフラメンコと呼ばれる文化ではないでしょうか。HP「フラメンコ小史」から引用www.spainnews.com/flamenco/flamenco.html

6)俳優ユル・ブリンナーがロマ(ジプシー)出身。世界ロマ連盟の初代会長がユル・ブリンナー。

チャーリー・チャップリンもロマ出身。ロマと言えばヨーロッパでは極貧の民族の代表になっているが、チャップリンもまた幼児期を極貧の中で暮らして、その映画もまたコメディにも関わらずそこに流れているのは極貧の描写である。彼の自伝記から引用:「Grandma was half gypsy. This fact was the skeleton in our family cupboard (おばあちゃんは、半分ジプシーでした。そのことは、外聞を憚る一家の秘密でした。) : My Autobiography, P.16Charles Chaplin: Penguin bookによる。

7)フラメンコの魂、フラメンコの根源の魔性。DUENDEは、人の魂、その悲哀や苦悩、愛と憎しみのためらいも怒りのない無心で赤裸々な表出。(フラメンコの芸術)現在ギター2月増刊号、D.E.ポーレン著、青木和美訳、P21)

 

Friday, 08 June 2012

現在の大学の英語に対する一言

日本での英語教育の時間数では中学3年間で430時間、高校で600時間の長い時間数を費やしたのにかかわらず残念ながら多くの学習者は、いまだ英語を使いこなせないのが現状です。何かが間違っているのです。その原因として高校卒業までの英語学習の時間が、ほとんど「英文法」に費やされたからなのです。「英文法」=「大学入試科目としての英語」の認識があります。そのような傾向では、本当の使える英語が身につかないのは当然なのです。
高校卒業までの6年間英語の実用性の面では学習していませんので、これからの大学の英語教育は、日本の国際化の時代に適合した「実社会で使える英語力」を身につけるための英語学習を学生たちへ認識していただき、また英語に携わる教員の先生方もその認識に関連した基本方針とカリキュラム検討・実施することが必要であります。
但し、英米人が話すいわゆる「純粋な英語」と言われるものを学習するのではなく、世界に通用する「国際英語」を学習させることが、これからの国際舞台では必要不可欠なのです。
具体的には、英語母語話者が約3億人であるのに対し、第二言語や公用語としてまたビジネスで英語を使用する人々は約17 億人といわれていて、Standard English に対しWorld English が提唱されている現状認識が最初に必要です。そして、またEnglish は複数あるのであり、Japanese English は世界の多様な英語の一つであることを認識することも必要なことなのである。ネイティヴが使用しない表現だからという理由で切り捨ててネイティヴ・スピーカーの規範のみを追及していく限り、そこに到達することはなく、コミュニケーションが苦手な国民から脱却できないであろう。ノンネイティヴ・スピーカーは常にネイティヴ・スピーカーのコミュニケーションスタイルに従うべきであるという伝統的な前提を再検討しなければならない。もちろん我流英語では話しにならないが、日本で変化した英語に光を当ててみることは必要であろう。学校教育においてコミュニケーション能力を重視する傾向が強まっているが「国際語としての英語」ととらえてアメリカやイギリスの英語のみならず世界の英語圏を視野に入れた教育の工夫が必要である。英語は必ずしも英米文化と同一視できるものではないのである。ボキャブラリーや表現に加えレトリックにおいてもアメリカ人やイギリス人の方法に従うものとされていたが、今日では必ずしもそう言い切れない状況が生じているのである。それぞれの英語の特色を理解し、レトリックに精通する人材を育てる教育が重要な意味を持ってくるのである。つまり、国際英語を習得すると同時に「異文化」の学習が必要なのです。
また、英語が長年学習してもなかなかものにならない理由は、「英文法中心主義」の偏重のみならず、日本人は神経質で完全主義にとらわれすぎているように思われます。非英語圏の欧米人が、短期間に「英語のスピーキング・リスニング」が、日本人よりも何倍も速くものにするのです。その理由は、完全主義と対照的な不完全主義に徹しているからなのです。 その不完全主義教育を学生たちへ教育することも不可欠であります。 それら2点を実践することがこれからの英語教育者にとっては重大な責務であります。

 

 

Friday, 16 March 2012

「日本の大学における国際交流とは?」私見

(*日本の大学の国際交流活動について、最近、私が執筆した原稿の写し。もし興味がありましたらご覧ください。)

まず「国際交流とは何か?」、この問いに私は戸惑いを感じる次第である。

世間では、国際交流という言葉が、ある意味でファッションの響きがあるトレンドのような観のある言葉の様にもてはやされていますが、何かが違っているように思うのである。

日本人の深層心理の面でその言葉に魅力を感じるのは、よく言われるように地理的な孤立的な位置にあるように思うのである。そのような環境の中で日本以外の国々に対する「あこがれ」の意識が永い年月に間に心の中に蓄積してきた結果なのです。

国際交流は、本質的に「心の交流」であると言われているが、「交流」が本当に実現されているかというと残念ながら日本人には不得意の様である。歴史上日本人は、異国から征服支配された経験がほとんどなく、日本人の同一の価値観が存在する日本国という土地に甘んじてきたのです。他の国々の場合は、制服・支配された体験していて、自国と異国との価値観の葛藤を克服する術が自然と身に就いてきたのです。

以上から言えることは、真の国際交流の実現には、艱難辛苦の道のりなのです。

一般に、国際交流とは異国の人間双方の価値観の一部分のみが融合されることであり

双方すべての価値観が合体する姿に実現化は不可能であります。国際交流とは、その点を双方が十分に認識して、尊敬の念から生まれてくるのである。

私自身もいろいろな国際交流活動に携わっていましたが、それらを通じて確信したことは、「イデオロギー・人種・宗教等の違いを乗り越え同じ人間として尊敬し合うこと」の姿勢を学んだことである。また、イギリスへの短期留学や業務上での40数カ国への渡航経験、留学生への授業を担当した経験等が、その後の国際交流についての理解に大いに役立っています。

さて、日本の大学での国際交流ですが、前節で述べた根本の考えを踏まえると、おのずからある形が浮き彫りになるのです。

大学という教育機関の範囲以内での「国際交流」に対して、私見を述べますと、まず、日本の大学であることである程度の限界の中での活動になることを申し上げなければならないのです。国際交流という山に対して大学の国際交流は、ひとつの入り口からのアプローチと理解することが必要です。

日本の大学での私の提案は(1)国際間の学術の最新情報収集機能の確立(2)教員と学生の国際教育の整備(3)学生(日本人と諸外国の学生)の交流の推進体制(4)産学協同による協力体制の確立(5)自治体の協力体制の確立(6)諸大学との協力体制の確立

特に、大学の国際化を将来見据えた時の最重要項目は、(4)・(5)(6)である。

(1)今までの学術情報が、海外(特に欧米)からの一方向の情報の流れが一般的であり、日本からの発信については、かなり消極的な傾向ありました。例えば、諸先生が他の論文集や書籍は、逐次諸外国の高等機関へはSNS等により発進されているかといえば、それ否定的である。その理由は、欧米優越の姿勢が日本人の心の中に既成概念として根付いていた結果なのである。

国際的学術の発信基地の確立が急務

①SNSの利用による海外の研究者との交流促進

②定期的な国際会議の開催

(2)教員・学生の双方の語学力の不足、異国の人々との交流の機会のなさ、
   長期海外
滞在のなさ。

①諸外国語教育の充実(日本人と外国人講師によるTeam-Teaching method

②大学の日本人大学生の海外提携校への受け入れ態勢の確立

但し、海外留学対象校の選定には、大学と受け入れる外国の大学

との双方の担当者が対話を通じて十分に審議することが必要である。

③海外姉妹校の確立

海外提携校とは違い、まず姉妹校(英語圏・中国圏・ロシア圏・アラ

ビア語圏・ヒンドゥー語圏・スペイン語圏・フランス語圏等の各語圏

で各一校)と提携すること。この種の確立は、大変有効である。な

ぜならば、各姉妹校から留学生、または日本からの日本字留学生の

双方の親密な関係によって多様な相乗効果、また波及効果を大いに

期待できるのである。

④教員の一定期間の海外研修

学生の異文化教育の前段階に、教員の異文化教育の確が急務である。

⑤留学生交流室の設置

海外からの留学生の各種相談窓口*事務的なものから個人のメンタ

ルの相談

⑥国際交流(異文化コミュニケーション)の視点からの学生のカリキュラムの再編成の検討

⑦海外の大学との静岡大学との単位互換制度の確立

(3)学生同士の交流活動の確立

学生同士の情報交換・各種イベント等の場として、インターナショナルサ

ロンの設置。

それの実施・運営をすべて学生に委任する。

(4)産学協同の協力体制の確立

各企業の目指している国際化について、ソリューションビジネスの視点か

らの問題解決の提案、協力体制のアプローチ(大学生の雇用と関連)

(5)自治体との協力体制の確立

大学の県単位の国際化へのアプローチ

具体的には、各種国際イベント・Symposiumの開催等による町おこし・

村おこし活動の推進

(6)諸大学との協力体制の確立

   特に姉妹校との協力体制

結論(有効性)

以上の(1)(2)(3)(4)(5)(6)の実現化によって教員・学生との信頼関係が構築され、国際交流を実施している大学への国内外における名声を高め、他大学・地域の人へ大学としての信頼性を向上させ、また大学としての魅力の一つを構成することができるのである。

 

Thursday, 27 May 2010

私の好きな格言集(ラテン語)

Les suivants:
*Gutta cavat lapidem non vi sed saepe cadendo.
=水の滴は力によってではなく、何度も落ちることによって、穴をあける。
*Calamitas virtutis occasio est.
=災難は勇気を試す機会である。
*Gloria virtutem tamquam umbra sequitur.
=栄光は影のように美徳に従う。
*Omnium rerum principia parva sunt.
=すべての物事の始まりは小さい。
*Dum fata sinunt vivite laeti.
=運命が許す限り喜々として生きよ。
*Amici in rebus adversis cognoscuntur.
=友人は逆境において認識される。
*Difficile est tristi fingere mente jocum.
=悲しい心で冗談を作ることは困難である。
*Fides,ut anima,unde abiit,eo numquam rediit.
=信頼は、魂と同様に、立ち去った場所に二度と戻らない。
*Imperare sibi maximum imperium est.
=自分自身を支配することは最大の支配である。
*Ego nullam aetatem ad discendum arbitror immaturam.
=私はいかなる年齢も学ぶのに若すぎることはないと思う。
*Fortes fortuna juvat.
=運命は臆病者の味方をしない。(ソポクレスの言葉より)
*Barba non facit philosophum.
=うわべを飾っても中身が伴わないと魅力がない。
*Petite et accipietis,pulsate et aperietur vobis.
=求めよ、されば得られるであろう。叩け、されば運命の扉はあなt方のために開かれるであろう。(聖書の言葉より)
*Exempla docent,non jubent.
=口で指示するのではなく、身をもって模範を示せ。
*Vita brevis, ars longa.
=人生は短く、芸術は長い。(セネカの言葉より)
*Sapiens habet divitias in se.
=賢者は自分自身の中に財産を持つ。
*Memento mori.
=自分が死ぬことを覚えていなさい。
*Usus magister est optimus.
=経験は、最良の教師である。
*Nunquam periculum sine periculo vincemus.
=我々は、危険を冒すことなしに、危険に打ち勝つことは決してないだろう

Sunday, 23 May 2010

Meine geliebten Dichtungen

『懺悔』

(1)
革のコートの襟を立てながら
冬の夜道を歩いている
今日も何も楽しいことがなかった
うちでは、誰もいない部屋に帰るだけ
飲み屋の片隅で日本酒片手にいっぱい飲み干す
店を出るとき、ふと誰かが俺を呼び止めたか後ろ      
を振り向くとただの気のせいい
(2)
港の明かりが俺の心を和ませる
波間のざわめきだけが俺の心に心地よい
今頃どうしているのか、俺の子供
うちでは、一人部屋でカップラーメンを食べるだけ
映画館では、楽しくないのにただ時間を潰す
外で、カップリが寄り添っている
俺はポケットに手を突っ込みぬくもりを感じる
俺の子供はもういない、いまごろどこに
会いたくても、会いたくても、もう会えない
ただ一言『元気でいてくれ』と祈るばかり
                             (自作)

『ランプに寄す』

まだ移されることなく、美しいランプよ、
おまえはここでかろやかな鎖に愛らしく吊られ、
もはや人が訪うことのない園亭の天井を飾る。
おまえの白い大理石の皿の上には、
金緑のブロンズのきずたが縁に絡まり、
子供の群れが楽しく輪になって踊る。
すべて魅力にあふれ、なんと晴れやかなこと!
しかも、真摯のやわらかな心が形全体に注ぎこまれー
真正の匠みの産物だ。
だが誰がこれに眼をとめようか?
美しいものはしかし、
そのもののうちで浄福に輝くのだ。
 (ドイツの詩人エドワード=メーリケの詩集より)

『秋に思う』

世間ではー読書の秋、芸術の秋ーといわれていますが、
この季節は、大気は澄み、空は高く、木々は色づき、
また、夜の帳(とばり)がすっかり降りるころ、
昼間のカーテンを押しの無数の星々が天界に輝きだします、
なんと澄んだ透明な自然の静けさを感じることか、
その言葉がわかるような気がします   (自作)

『我が心の友』

夜の天界に吊るされている煌めく星々を見上げてください
貴方の心が悲しいとき、きっと温かい手のひらで貴方を優しく包んでくれることでしょう
貴方の心が寂しいとき、きっと貴方のそばに来て優しく声をかけてくれることでしょう
貴方の心が辛いとき、きっと優しい言葉で貴方を慰めてくれることでしょう
そして、貴方の心が楽しいとき、きっと貴方と一緒に手と手をつないで大空を飛び回ってくれることでしょう
私は、そっと星たちに告白しますーーー君らがこの世にいる限り、私は生きていける、ありがとう 
(自作)

私は生かされている、野の草と同じである、路傍の小石とも同じである,自然は心の鏡 (日本風景画の巨匠:東山魁夷の言葉)

偉大な音楽の芸術を愛し、研究しなさい。それは諸君に崇高な感情、情熱、思想の一大世界を開いて見せるだろう。それは諸君を精神的により豊かに、清く、完全なものにするだろう。音楽のおがげで諸君は自分の中に新しい、これまで知らなかった力を発見するだろう。諸君の目には人生が新しい色調、新しい色彩において見えてくるに違いない。(ロシアの作曲家:ショスタコーヴィチの言葉)

Meine Selbstdarstellung:自己表現

Ich denke, also bin ich.

*今日という日が終わろうとしている。でも時の立つのはなんと早いことか?今日一日振り返ってみて自分にとって悔いのないものであったろうか?できるだけ全身全霊で過ごしたつもりである。しかしながら、自分で頷けないのである。明日がまた来て、明日が過ぎるとまた同じことを繰り返し言うのであろう。多分それでいいのであろう。人生とはそういうものである。

*星が無数に高々と大空にくっついている。彼らは、寄り添いながら何かを語っているように感じられる。何を語っているのであろうか?ある星座は、自分の昔の地上での出来事を語っているのかも?僕も彼らの仲間に入れてもらって楽しい話に耳を傾けていたい。彼らを見上げる僕は今ここに。

*白梅・購買の花の時期が過ぎ、まもなく桜のつぼみが咲き出そうとしている、ある晴れた日曜日、私が道を歩いていると、小さな白い花を目にした、その花の周りのみどりの草草がなんとその花びらの白さを引き立たせていることか?それにしても僕は春が近づきつつあるこの時期が好きである、すべての生命の蘇りがあるからです、このような中に僕は潜り込んでいる。

*ある日、歩道を歩いていると歩道の上に何かが動いていたので、そちらへ目をやると2~3匹のおたまじゃくしが身悶えしていた、誰かに水のある中へ入れてくれるよう訴えているようであった、助けてあげたい気持ちになったが、やめにした、なぜならば、これがこの生き物たちの死と出会う場所でもありまた時期でもあろうから、彼らは、人間の度外視されたところの寂しいところにいる、たぶん、僕が死に遭遇するときも同じ状況になるのであろう。死と孤独は表裏一体であろう。

*図書館の窓硝子に映し出された美しく、神秘に富んだ桜の花々よ!お前たちは、なぜそんなに夢心地でいるのか?お前たちは、その華やかな美しさが、はかないものであるのを知らないのか?それに答えてお前たちが、「その次の枯れていくことを知っているからこそ、私たちは、この時期を一生懸命に美しく着飾っているんです。」という声が聞こえるようです。

*画家の村上氏の数々の絵のなんと強烈な色彩だ!あの強烈さに何かだひそんでいるのであろうか?そのらの作品の中で「オリーブの血」と題するもの、何かが他の作品と違っている印象を受けた。その絵の色彩は強烈であるが、全体のタッチが非常に「柔らかく・のびのび」としている。彼の別名が、「魂の放浪者」と呼ばれているが、それらの作品を見ていると、そう呼ばれるのがわかった気がした。

*フランスの画家キスリングの作品のタッチは、繊細であり、また鋭く、その色彩はといえば、概して暗い色を使っているように思われます。キスリングは、貧しい家庭に育っただけあって、彼の作品の題材は、世間からの目で見ると、低く卑しく暗い作品が多い。例えば、「三人の孤児」や「二人の姉弟」などである。

*この静かな闇の世界へ、まもなく朝の太陽が顔を出そうとしています、ボクは、この静かな世界で心をめぐらす、過去・現在・未来、今のボクは、このときの流れの中で生きています、人生とは、この時の中で生き、一生を終えるのでしょう、どうせ、いつの日か自分の命の終焉が来るなら、今の瞬間をもっと大切に楽しく生きたい、時が自分の好きなようにあやつれたら、すばらしいのになあ、今日もまた一日が始まろうとしています、悲しいこと、楽しいこと、苦しいことの開演です、新しい一日よ、「こんにちは」、そして、きのうの日よ、「さようなら」。

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