November 2009
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

項目一覧

  • (1)~(4)の各項目をクリックすると詳細がご覧になれます
    (1)おすすめサイト  *岩崎秀夫のギタースクール *私の講演テーマ(2)文化・芸術  *我が旅考察論 *我が演劇論::序論 *我が芸術論:序論 *我が芸術論:本論(更新中)(3)芸能・アイドル  *私の人生行路 *俳優:岩崎秀夫の掲載媒体(更新中) *私の記憶にある出演歴(更新中)(4)日記・コラム・つぶやき  *INVESTIGATION(研究課題)(更新中) *評判をいただいた自作のシナリオ集(代表作) *私のファンの方々へのお詫び状 *私の感じたままに(更新中) *国際派俳優:岩崎秀夫の軌跡

Tuesday, 02 January 2007

評判をいただいた自作のシナリオ集(代表作のみ)

各作品のあらすじ

(1)『GRADUATION』-苦労して幸せを見つけたとき、過去の男と再会する。そして殺人へと悲しい由美子の人生が展開してゆく????

(2)『365日』-薄幸な母子の人生行路がコスモスのはかなさのように展開されます。生きることの悲しさを描いた作品。

(3)『旅』-銀座のバーのママである入江裕美。毎年、突然青森へ旅に出ます。
実は、20数年前ある事件があったのです。命の大切さを描いた作品。

(4)『憎しみ』-結婚から半年、妻からの別の男性の告白。その男性との2年間の同棲生活。その男性の殺害。彼女の刑務所への前の夫の面会。逃げ出した妻を許す本当の愛の表現を描いた作品。

(5)『姑と嫁』-陽子は山形から東京へ『一旗あげるために上京』。西川博志都の出会いそして結婚。博志の失踪。姑のタエとの2人の生活。博志の帰りを下向きに待ち続ける陽子。タエの離婚の申し出。しかし、陽子のおなかにはすでに博志の子がーー陽子とタエの気持ちの変化を描いた作品。

(6)『すすき』-山田祐助、失業中。ふと旅へ。赤湯温泉の旅館の娘晶子との奇遇な出会い。2ヶ月前に他界した祐助の母と言った高尾山の思い出と晶子への告白。秋のすすきを背景にして美しく描いた作品。

(7)「おじさん」-宝田裕子と息子真助。裕子は、自分のスナックを経営。息子は、高校生。ごく普通の母子家庭。裕子の実の兄の岩下真二の登場。亡き夫には、子供ができない体であった。では、息子真助の実の父親は誰だ?そして、最後に真助の自殺へーー伸介を通して幼い子供の心の純粋さともろさを痛烈に描いた作品。

(8)「ラブシーン」:一人芝居の設定。人間不信、特に女性に対する。昼間は寝て、夜に徘徊するデパートの夜間警備員。女のマネキンとの出会い、一方的な口説き、告白、愛撫ーー現実と空想の異様な世界。人間の現実世界への落胆と寂寞を描いた作品。

(9)[写真」-12月のクリスマスに時期の東京の航空学校の学生川村健二の長崎への一人旅。そして、川村と長崎在住の看護婦吉野由美との長崎の大浦天主堂での出会い。川村からの由美への長崎案内のお願い。川村が由美に好意を寄せている。あるタイミングでの川村からの由美への『愛の告白』。しかし、由美から見せられた一枚の写真ー長崎原爆のきのこ雲の写真。由美が一言『私は被爆二世です。私は、白血病です。私のことは忘れてください』と。しかし、川村は、一言『命がある限る君を愛し続ける』と。そして、お別れの日、駅のホームで来年の夏休みには必ず由美に会いに来ると約束した川村。しばらくして、東京の川村のところへ一通の電報『ヨシノユミ・キトク』。数年後、長崎原爆記念の日、東京で原爆反対のプラカードを持って行列の先頭に立つ青年ーー川村がいた。2人の美しい愛を描きながら、ある種の社会的な『反戦』を訴えた内容の作品になりました。

(10)[盗む」ー新任の高校の教師。教師の不始末に厳格な学校。性の誘惑が渦巻く数々の場面。ついに、性の罠にはまっていく教師。ある自分の女子生徒との関係。そして、異母兄弟の兄(スナックのマスター)からの高額な慰謝料請求。教師の自殺へーー。教育者の性の葛藤の一面を捉えた作品。

(11)「ハンカチ」-夜の電車の線路を女が歩いている。山下ゆみである。自殺するところである。線路の向こうから男が駆け寄って,制止する。川島祐二である。ゆみは、制止を振り切って自殺しようとする。川島は、命の尊さを諭す。ゆみは、川島が足が不自由なのに気がつき、自分の不甲斐なさを悔いる。そして、ゆみは新たな人生を歩み始める。そのとき川島との運命の再会がーー。

以上です。



Saturday, 09 December 2006

私のファンの方々へのお詫び

本当に申し訳ありません。

私のシステム上のミスで、私の一つ目のホームページでありますhomepage3.nifty.com/I-I-A-JAPAN/は、更新できなくなってしまいました。これからは、このブログで最新情報を更新してゆきますので再度よろしくお願いいたします。つきましては、廃版の一つ目の情報をすべて転記いたします。

俳優:岩崎秀夫

Saturday, 18 November 2006

私の感じたままに

先日、秋も深まりつつあったころ京成線の中山駅を降り立ちました。心は仕事もなくうちに一人でいても仕方がないので、寂しさを忘却のかなたへ押しやるつもりで、ここ中山駅へ来たのです。過去に2・3度訪れているのであるが、古の風情を感じるところである。中山法華経寺への参道のお土産店の数の少ないこと。寂れた参道の印象を受けます。道を行き交う人々の顔にも何か精気を感じない。そのような見方をする自分の心の中の鏡が曇っているからであろうか?そのような見方しかできない自分が情けなく、またその人たちに失礼な見方をして悪かった気持ちに襲われるんです。--いつまでもその気持ちを持ったまま参道にとどまっているのが、気恥ずかしくなってきたので、再び歩き始めると、目の前に法華経寺の玄関である山門の左右にある大きな仁王さんたちに出迎えられ、ふとその境内の概略図に目をやると、見慣れたはずの地図に右上の方に奥の院と書かれていた文字が目に入りました。私は、そこへ言ってみたい衝動に駆られ、仁王門の本道へ通じる道からわきへそれ車道に出て、秋の夕方の日差しを体全体に浴びながら、のらりくらりと坂道を10分ほど歩いたところで、まるで女性のスカートを広げたように何段もの石段を敷き詰めている情景に出会いました。そのスカートのベルトで締め付けるあたりにお寺があり、こちらを向いて立っていたのです。ふと、現世の悩み事を忘れさせるものでした。そして、われに帰り再び坂道を『奥の院』目指して歩き始めたのです。しばらく行くと、道の分かれ道に、それは『奥の院の道』と書かれた見るからに崩れ落ちかけた石碑に目が留まり、坂道に点在する住居となんと不釣合いにあることかと思ったものです。(今この暮れのクリスマスの時期に、そのときの記憶をたどると頭の中にある混乱が生じてしまうのであるが,とにかくそのときのことを書き留めておかねばならない焦燥の駆られるのです)とにかく、坂道をのぼりきり、あたり一面が開けた場所に辺りを見回してみると「奥の院」らしいものがないのである。しかし、ちょっと狭い道に入ってみると、見るからにいにしえのにおいがする山門が私の眼前に立ちはだかったのです。境内を恐る恐る眺めて見ると、私以外にいないらしく静寂に包まれた落ち着いた空気が漂っていました。境内の中ほどで本殿の朱色の飾り立てられたファサードに見とれていましたが、ふと、背後のことが気になり後ろを振り向くとなんと、幾千もの水子供養のお地蔵様さまが立っていました。また、本殿の右手奥には、滝つぼがあり10メートル以上の岩から水が流れ落ちると思われました。つまり、私が見たときは、水がなかったのです。あくまでも私の想像ですが、流れ落ちる姿は、爽快な眺めであるのでしょう。(続く)

吹上の長野公民館での印象
日時:2009年2月21日
高崎線の吹上駅へ降り立った時、晴天にもかかわらず冷たい風が吹きずさんでいました。降りる人もまばらで何かより一層寒々した感じがしました。駅の周辺には、コーヒーショップが一軒もなくそそくさとタクシーに乗り、10分ほどで公民館に到着しました。着いてみますとなんと都会とはあまりにも違う風情を漂わせていました。(続く)

Sunday, 07 August 2005

国際俳優:岩崎秀夫の軌跡

i-int.l-association@nifty.com

この度プログヘ私の気の向くまま書き込みをしてゆこうと思います。とりあえず、興味のある方は、私の芸能人公式ホームページをご覧いただければ幸いです。

http://homepage3.nifty.com/I-I-A-JAPAN/)

私が50年生きてきたが、最近「自分の生きざま」について考えてみると、どうしても大学時代のいろいろの場面が脳裏をよぎります。私は、2つの大学を入学し、ひとつは卒業しました。っ最初の大学は、東京の中央大学で私は、高校ごろから世界の歴史が好きになり、20世紀の歴史学の巨人と言われる英国の歴史家アーノルド・トインビーや大哲学者シュペングラーから大きな影響を受け、その大学で西欧の歴史学を専攻しました。当時、中央大学史学部は、定員数の約50倍の受験希望者で難関といわれていました。なぜ私が、その大学を選んだかといえばよい就職先の会社へ入りたいためではなく、その大学に歴史学で有名な教授が在籍していたからなのです。今の大学進学者の方は、大学は学問の場であるとの認識があまりなく優良会社へ就職するためのワンステップと思っている方が多いのではないかと推測いたします。東京大学や早稲田大学や慶応大学へ入れば、将来が決まったように思っていることでしょう。残念ながら、どの大学に入学しても入ったあとは「遊ぶ」ことに専念してしまうということです。そのような現状であれば、どの大学の学生でもみな同じレベルになってしまうのです。残念ながら、「学問勉学」する学生さんが大変少ないのが趨勢に思われます。私自身、いくつかの大学で教壇に立った経験がありますが、多くの学生さんはあまり勉学に取り組むことが少ないように思われました。私自身、先ほども申し上げましたように、私は、著名なな教授がいれば、どの大学でもよかったのです。勿論、私もあまり勉学をしませんでしたが、できる限りいろいろなことに問題意識を持ち、できる限り図書館へ通ったものでした。ところで、私の大学生時代は、1970年代で大学紛争がまだ激しい時代で、教室で授業を受けていると、突然過激派の学生さんたちがなだれ込んで、われわれノンポリの学生は、教室から出ることができない状態になり、恐怖にさらされました。結局、授業があるときに大学に行っても大学が閉鎖になって(図書館は開館していましたが)授業にならなく、掲示板にはいつも「レポートを提出すること」と書いてありました。毎日が自宅待機と図書館通いで私自身大学に対して魅力を感じなくなり、最終的には1年で大学を自己退学しました。次に退学後、2年間ほど社会で働いていましたが、どうしても大学に戻りもう一度勉強をしてみたい気持ちが続き、2年後に学園紛争のない静かな大学がないか書店でいろいろな大学の案内書を見ていると「獨協大学」の案内書が目に止まり、埼玉まで入学試験に行きました。獨協大学だけ受験し、もしこの大学で不合格になったらもう大学を辞めようと思いましたが、幸運にも入学が許可されました。今でも覚えていますが、その入学許可書を亡き父の墓前に添えたこと。父について少しお話をしますと、父は栃木県で農業に従事してましたが、父の母が他界してから東京へ出て、父は叔父を頼って叔父が経営していた印刷会社で働き始めたとのことです。母と結婚をし何年かして自分で印刷会社を経営するようになり、われわれ兄弟が生まれました。父は,寡黙な人で仕事を黙々と毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしていました。私の脳裏には、父がいつも仕事場にいる記憶しかありません。話が父のことで深入りそうなので本題の私自身の話へ戻ると、昼間は、授業と図書館かよいで夜は生活のために東京で喫茶店のウェイターのアルバイトをしていました。毎日がめまぐるしく過ぎてゆき、自分自身の存在が消えそうになりました。図書館で机に向かっているときやふとその窓から見える外界の景色を見ているとき一瞬の存在感を感じたものでした。

時のたつのは早いもので、入学して1年生のとき私の人生での大きな節目に出会ったのです。私は、そのころ、このまま大学を卒業するのは、あまりに意味がないように感じ何か自分でできるものはないかと模索していたのです。どこでかは忘れましたが、あるポスターが目に留まったのです。文部省の管轄のJYVA(日本奉仕協会)主催の「夏の国内ボランティアー活動に参加しませんか?」とかいう趣旨のもので場所は、全国指定の施設がある、宿泊費、食事代、交通費等すべて支給。私は、旅行気分のつもりで九州の佐賀にある老人ホームに40日ほど滞在しました。その前に事前研修があり何人かの人と同じ派遣先になり私がリーダーに指名されてしまいました。私の提案の「老人ホームと地域住民との架け橋」というテーマで行くことになりました。現地に着くと、早速施設の職員の方が車で駅まで迎えていただき、私にとって生まれて始めてその施設に訪れたのです。
そこでの生活は、私にとって一生忘れることができない体験になったのです。最初に「テーマに基づい何をすればよいのか」私には見当がつかなかったのです。主催のJYVAでは、特に何も指示されなかったのです。つまり、自分で主体的に考えて行動することが、このプログラムのねらいであったように思われました。また、私自身リーダーを指名されましたので、ほかの数名の仲間に指示をしなければと思ったのです。結局、次のような活動をしたのでした。

Recent Comments

My Online Status

無料ブログはココログ